2016年11月20日

京都新聞:原田良子「『御花畑』室町通に正門か」

『御花畑』室町通に正門か  客人迎える茶室など存在
2016.09/27 の京都新聞朝刊 に寄稿を掲載いただけました。
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薩長同盟から150年目の今年5月、締結地とされる「御花畑」(近衛家別邸、小松帯刀寓居)の場所を現在の京都市上京区森之木町(上京区上御霊中町、北区小山町にまたがる)と特定する公文書・京都府行政文書を発見することが出き、京都新聞6月10日朝刊で紹介いただきました。
「御花畑」は、近衛家と縁戚関係にあった島津家が借用し薩摩藩家老の小松帯刀が居住していた邸宅のこと。
幕末史に詳しい原口泉鹿児島大学名誉教授によると、慶応2(1866)年1月、薩長同盟が小松寓居で結ばれたというのは戦前からの定説であり、『鹿児島県史第三巻』にも明記されている。

 森之木町で届け出
発見した資料は、先般一時閉館した京都府立総合資料館に所蔵されている膨大な京都府行政文書の中にあった。
「貫属士族受領並拝借買得邸一件」(土木課文書)という明治4年の簿冊の中にあり、近衛家が「上京七番組室町通鞍馬口下ル森木町」(現在の森之木町)で届け出た文書と邸宅地を示した添付図によって、まざまな新事実が明らかになった。
御花畑は約1800坪という広大な敷地で、「瓦住居二階建」「瓦平家長屋」「土蔵」などの建物があったことが判明。
敷地は現在の森之木町、上御霊中町、小山町の三町にまたがっていたが、近衛家が「森之木町」として届け、府が受理した公文書であることから、「御花畑」は森之木町に所在と表現した。
また、この文書には「名代」がたてられている。登谷一伸宏氏の「近世の公家社会と京都−集住のかたちと都市社会ー」(思文閣出版)によると、公家が町人の土地を買得する場合、町役などの負担を確実にするため、町側は代理人をたてることを求めたという。
「御花畑」もそのケースだったことを考えると、近衛家が届けた森之木町に対して義務を負っていたと考えるのが自然であり、屋敷所在地も同町と表現するのが適当である。
 舞台ふさわしく 
一方、鹿児島県では「御花畑絵図」(県資料センター黎明館所華玉里島津家資料)が幕末薩摩外交展で5月24日初公開され、27日に閲覧した。
京都府文書にもあった門3ヶ所、門番所、社なども描かれ、「室町通森之木町、鞍馬口通小山町」の記述も確認した。
屋敷の位置表記は、府文書添付図にある「間口」「奥行」の記述から鞍馬口通御門が正門であり、小山町だ。という見方がある。
しかし、絵図の門の表記は全て「御門」であり、鞍馬口通御門を入ってすぐ右手には台所があるので、普段使いの門と考える。
一方、室町通は当時南北を貫くメインストリート の一つであり、それに面した門は客人を迎えるための御花畑や茶室、能舞台に直接つながることからも特別な正門と理解でいきる。裏門とはいえない。
御花畑はこのように小松の私邸にとどまらず規模も機能も準藩邸といえ、薩長同盟の舞台としてふさわしい屋敷であった。
ところで、明治維新150年目となる2018年のNHK大河ドラマの主人公は西郷隆盛であると今月8日発表された。
今回の発見に至る御花畑の場所を森之木町と想定した根拠の一つが、西郷隆盛文書の中の「御花畠水車を移設せよ」という記述である(「大西郷全集 第二巻」平凡社)。
戊辰戦争の後に出されたと推定される指示書である。
水車には水路が必要だが、森之木町周辺には賀茂川の水を引き、室町頭から禁裏(御所)へと流れる御用水路が流れていたことを古地図で確認した。
御花畑絵図でも古地図通りの屈曲した水路が描かれていた。
当時水車は主に精米に使われ、幕末、京に多数駐留した薩摩藩士や使用人らの兵糧に必要だったと推測する。
明治維新後、不要となった水車は指示通り移設されたようで府文書にも絵図にも水車は載っていない。
そしてあまり知られていないようだが、西郷隆盛の長男西郷菊次郎は2代目京都市長となり、第三琵琶湖疏水の完成に尽力した。くしくも、父子そろって京都の水利に関係したことになる。 
明治維新への転機となった薩長同盟は謎が多かったが、多くの先行研究で解明か進みつつある。
そうした成乗も取り入れつつ、西郷隆盛と縁の深い京都が大河ドラマでも描かれることを期待したい。(以上)

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同ブログ「御花畑」発見の経緯 と合わせてご高覧頂けたら幸いです。
posted by 原田良子 at 19:37| 日記

瀧家文書と御花畑御邸

 

 ※拙稿「薩長同盟締結地「御花畑」発見」(『敬天愛人』第34号、西郷南洲顕彰会 刊、2016年9月)より、

瀧家文書と御花畑邸」を紹介致します。

 

はじめに、

『近衛家 家司 瀧家関係文書』を翻刻、出版された石田善明さん

 

石田善明さん 瀧家文書.jpg

 

古文書を私費で購入され10年以上かけて翻刻されました。頭が下がります。

 亡き父と同じ、昭和9年生まれの石田さんのおかげで御花畑の研究が前進しています。

心から感謝申し上げます。

 


 

瀧家関係文書は江戸期の近衛家の家司の瀧家の記録文書である。

 

その中に幕末期の瀧伊織による、近衛家桜木邸の普請工事を詳細にかつ具体的に記述した「桜木町御殿御普請御作事控」とする記録がある。

「桜木町御殿」は、当時、近衛家が丸太町川端東入桜木町(現在、桜木町名はない)に所有していた千八百七拾七坪五厘の邸宅地である。現在、その地にはないが、天理教河原町大教会が存在する.(註1)

「控」は日付をおって事細かに記録され、大工棟梁の木子家からの建築費請求の明細もすべて記録された希有な史料であり、第一級の一次資料である。文久元年六月から、翌年九月までの記録が残っている。

 

以下、引用文の頁数は翻刻本による。

 

八月五日に「御普請中御花畑江御転還二付、今日申刻御出門二而御花畑江被為成候事」とみえる。

これは桜木邸普請中御花畑へ桜木邸住人が一時転居するために出立した記録である。

文面と当時の情勢から、この住人が安政の大獄で隠居した近衛忠煕であることは明らかである。

つまり、忠煕は隠居後、桜木町邸を居所としていたが、この時期改修を思い立ったと推察される。完成後の引っ越し記事をみると、忠煕は六女の信君(当時満十二歳)と桜木邸で同居していたようである。

 

八月二十五日に「蝋燭拾挺花畑へ御移り之節、源之丞ゟ先渡し置候得共、月ニ何挺と極り候様いたし度段申居候、右三口二見浦助ゟ承ル、隼人殿へ申入置候事[蝋燭を十挺(挺は蝋燭の数詞)花畑邸へお移りの時に、源之丞(瀧伊織の部下)に先渡していたが、月に何挺ときめるようにしたいといってきた。これを二見浦助(薩摩藩士で当時桜木邸に常住し、忠煕に仕えていたと推定)より聞いて、隼人殿(加治隼人、隠居所の小納戸役)へ申し入れた])」とみえ、実際に御花畑で忠煕が生活していた様子がうかがえる。

 

IMG_5182.PNG コピーライトマーク原田良子、新出高久2016

 

 

さて、文久元年十月六日に「御花畑御物見明後八日ゟ取解桜木町江勝手ニ引候様 木子少進江隼人殿ゟ今日被申付候事」とある。御花畑邸の御物見を明後日の八日より解体して、桜木邸にもってくるように御納戸役の加治隼人から大工棟梁の木子少進に申しつけられたのである。

 

この後、実際に御花畑邸の御物見では解体作業が行われ、部材が桜木邸に送られている。

十三日の記録に「御花畑御物見取解跡直し大工・屋根や等参ル、木品運送致候事」とあり、御物見解体した跡を「直し」ていて、大工、屋根職人などが派遣されている。

そして、連日「直し」作業がおこなわれ、二十六日には「御花畑御物見之処跡直し瓦等今日ニて致出来候事」とあり、瓦屋根なども葺いた新しい御物見が出来上がったとある。

 

一方、桜木邸へ運ばれた部材は、十一月朔(一日)に「御花畑ゟ引候御物見ヲ取建候御建物、今日棟上いたし候事」とあって棟上が行われた。

 

つまり、元の御花畑御物見は解体されて桜木邸で移設され、御花畑の御物見も別の形で再建されたことが知られる。

 

次に十一月十六日の覚書に「御花畑御舞台之間ニ有之候畳襖、且又御物見ニ有之候小障子弐枚、戸四枚等運送之事」とあり、そのあと御舞台之間と御物見ごとに細々と畳や襖、子障子等の種類や数を列記した上で、「右之通桜木御殿江運送之事」とあり、御花畑邸には「御舞台之間」とよばれる建物があったことがわかる。

 

十二月九日にはさらに残されていた部材も桜木邸へはこばれた記録がある。この後「御舞台之間」を解体した記録はないが、畳や襖をほとんどすべて持ち去られたあとは、おそらく解体されたであろうと想像できる。

 

絵図(玉里島津家資料「御花畑絵図」(鹿児島県資料センター黎明館所蔵)について説明した

「御モノミ」の記載、「空地」と朱書された貼紙の下にえがかれた舞台のようにみえる施設は、それぞれ桜木邸普請に活用された「御物見」および「御舞台之間」であることはほぼ確実である。舞台に附属する建物の畳の数と移送された畳の数もほぼ同じ面積であることからもこのことは裏付けられる。

 

さらに、文久二年二月九日には「御花畑ニ有之候古木・瓦之類桜木御殿江今日木子運送いたし候事」とあり、御花畑邸からさらに部材が桜木邸に運ばれたことがわかる。直後に古木や柱、桁などの建築部材が具体的に列挙されており、明記はされていないが御舞台之間の解体部材であった可能性がある。

 

こうして、絵図に貼られた貼り紙について理解できた。その他のところにも部分的に改築あとを張り紙で修正していった跡があり、その都度最新資料となるように配慮されたものであったようである。

 

IMG_5183.PNG

 

工事開始から約一年後の文久二年五月十七日は完成した桜木邸に正式に近衛忠煕が引き移る日と決定された。しかし、実際は十二日には御花畑邸の信君(忠煕六女)の御道具を桜木邸へ運送し、忠煕、信君は上御霊神社へ参詣したあと桜木邸へうつり、信君はそのままそこに居住し、忠煕は十六日に桜木邸から御花畑邸にいったん寄ってから近衛本邸にもどり、翌日にかねてからの予定どおり、正式に桜木邸へ移った。

 

以上のことから、御花畑邸は文久二年までは確実に近衛家の別邸として隠居となった忠煕の仮住まいに使われていたことがわかった。

 

また、貞姫輿入れ以後、薩摩藩士葛城彦一が近衛家に仕えていたように桜木邸にも二見浦助という薩摩藩士が常駐して忠煕に仕えていたことも明らかになった。

 

御花畑邸は展望台というべき御物見や水路、池をともなう大きな庭園(御花畑)をもち、

別に花壇も設けられ、タイプの異なる茶室が二カ所もあり、

さらに舞台興行まで可能な邸であった。

 

洛中洛外の境目という立地からも形式にこだわらず、花鳥風月を愛で、風流を楽しむ邸として利用されていたと評価できるであろう。

 

御花畑という名称にふさわしい邸であった。

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(註1)愛知県西尾市の西尾城内の歴史公園に邸宅は移築されて現存している。明治維新後、山階宮邸宅となり、その後天理教施設としてそのまま使われていた。昭和六十年に教会新築にあたって、保存のため移築された。


 

posted by 原田良子 at 18:11| 御花畑

講演:世界連邦文化教育推進協議会

2016.11.20 
第三回 世界連邦文化教育推進協議会 が、ハイアットリージェンシー京都で開催されました。
講演依頼を頂け、薩長同盟150年目に同盟地「御花畑」(近衛家別邸、小松帯刀寓居)の所在地や実数を、公文書の発見で特定できた経緯などをお伝えさせて頂きました。
基調講演をされた原口泉先生(鹿児島大学 名誉教授、志學館大学 教授、鹿児島県立図書館館長)との対談もありました。
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 世界連邦文化教育推進協議会の会長は、現在、東久邇信彦様が務めておられます。

歴代は尾崎行雄氏、そして母校 洛北高校の大先輩 湯川秀樹先生が歴任されていた会です。

思えば、母校・洛北高校から徒歩圏内である京都府立総合資料館(2016年9月閉館。2017年春以降、歴彩館として名称・場所を変え新IOPEN)に所蔵されていた明治初期の重要文化財に指定されている京都府行政文書・添付図の発見によって、薩長同盟締結地「御花畑」屋敷の所在地、邸宅地の広さ・坪数などの実数、五摂家 近衛家所有であったことが、150年目にして初めて判明できました。詳細   

こちらからも→ http://sego.sakuraweb.com/category/4422745-1.html

 

・授業で地域の資料館を活用

・資料館の貴重史料の公開性

 

様々な導きと要因のおかげで、発見に至れていることをお伝えしたところ、講演後、洛北高校出身の大先輩方からもお声がけ頂けました。

 

東久邇信彦様からは、人生における出会い についてご教授頂けました。

 

小学校教員時代、私は常日頃、子どもたちに出会いを大切にして欲しい。と願っていたことをお伝えしたところ、出会いの本質について語り合って下さいました。

 

「子どもの頃、その時は興味を示せなくても、体験は自分の中で熟成され、後に点が線へと繋がることもある。

子どもたちに本物に触れる機会、良き人やモノ、場との出会いを通して様々な体験をして欲しい。

そして、地道に積み重ねてきたことは、必ず、誰かが見ていて、応援してくれる。」

 

東久邇信彦様と共有させて頂けたこと、これからも忘れずに子どもたちへ伝えていきたいです。

お世話になりました宍野様、梶様、有難うございました。

 

さいごに、東久邇信彦様の隣で撮影させて頂いた写真、恩師 原口泉先生ご夫妻もご一緒です。

東久邇様 恩師原口泉先生と.jpg

 ※写真は大嶋紬が素敵な藤田恵子様より頂けました。有難うございました。


 

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posted by 原田良子 at 17:59| 日記