2019年03月21日

西郷菊次郎の書状発見から判明した新知見〜108年目の真実〜

昨年2018年11月、西郷菊次郎関係の書状2通を発見できました。
それまで翻刻されていなかった新史料です。(所蔵する京都市、拓殖大学等に確認し、許可得て論考済)
2通をもってそれまで知られていなかった事実が判明したことから、かねてからの研究をまとめた拙稿は今年2019年1月に受理いただきました。(「西郷隆盛の娘 菊草の終焉地について」京都地名研究会「地名探求」第17号2019年)
また今回の知見については、3月20日(水)鹿児島放送 KKB「スーパーJ チャンネル」ニュースで報道いただけました。
なお、筆者は京都におり電話で見解を延べていますが、昨年12月7日に「アリカナ」について会見した時の映像が使用されているのは制作関係者のお気遣いです。
以下、ヤフーニュースで視聴可能です。再生ボタンを押すと広告の後に流れます。
■『新史料 西郷どんの息子・菊次郎の新たな書状発見』
KKB 報道 20190320.jpgアリカナ会見時の写真 KKB.jpg

■はじめに
 西郷菊次郎は、明治37(1904)年10月に第2代京都市長に就任後、京都の近代都市化の礎となった三大事業の実現化に心血を注ぎ、超人的な働きをしました。しかし、持病が悪化し、明治44(1911)年5月に辞任願を提出しました。
同月中には転地療養のため、当時、居住していた聖護院「北御殿」を引き払い、家族と共に京都を離れました。
その2ヶ月後の同年7月、京都市会に於いて辞任願は受理され、在任期間(二期途中)約6年9ヶ月の功績から、
慰労金3万円(現在の約3億円(一説による))が京都市から贈られました。物価の変動などから単純に比較できるものではありませんが、前任者の内貴甚三郎元市長(在任6年)の慰労金4千円の7.5倍にあたり、破格といえます。

■菊次郎への慰労金
 慰労金3万円が贈られていることはあまり知られていませんが既知です。拙稿では当時の市会決議録等を用いて紹介しています。また、現在の価値への換算は何を基準にするのか難しいところですが、青山忠正先生(佛教大学 教授)に相談させて頂き、一説による。としました。

新史料の書状2通から判明したこと
 1通目の「市長代理 大野盛郁宛、菊次郎の書状(京都市蔵)」からは、慰労金だけでなく、感謝状も京都市から贈られていたことがわかります。感謝状は計440字に及ぶ長文であったことが調査で判明しました。
菊次郎の東奔西走、寝食を遺れた働きに対して、全会一致の誠意を込めての3万円の贈呈であったことも感謝状からわかりました。(感謝状についても拙稿で述べました)
また、その後の病状などもわかり、磯田道史先生からは、菊次郎の字体は西郷隆盛に似ている。との見解も頂けました。
ブログ用 京都市蔵の書状.JPG(京都市蔵)
2通目の「西郷菊次郎宛、柴田弥兵衛(当時の市会議長)書状(拓殖大学蔵)」からは、慰労金を受け取った後に「巨額の金円(原文)」が菊次郎から京都市へと送付していたことがこの書状により判明しました。
書状には正確な金額が記されておらず不明でしたが、その後の調査で、実際の金額をつきとめることが出来ました。(こちらも、寄稿・拙稿に明記しています)
ブログ用 拓殖大学蔵の書状.JPG(拓殖大学蔵)
やむなく京都市長を辞任した菊次郎でしたが、2通の書状から、京都市(市会・参事会・市吏員)と良好な信頼関係の下、京都百年の計に取り組んでいることがうかがえました。

■受け継がれた「敬天愛人」
 郷里 鹿児島に戻り、健康を取り戻せた菊次郎は、明治45年7月、島津家経営の永野金山(現 鹿児島県薩摩郡さつま町)鉱業館長に就任してから、私費を投じて、従業員子弟の為に、夜学校や武道場を開設したと伝わっています。
人材育成と地域貢献に尽力されたのです。それは菊次郎の人物を物語ると共に、父隆盛が唱えた敬天愛人の具現化と感じました。京都市とさつま町は、菊次郎の経歴の前後という事実だけでなく、このような深い繋がりがあるのです。

■菊次郎への高い評価と敬慕が慰労金
 京都市三大事業は、前任者の内貴甚三郎元市長からの引き継ぎでありました。その三大事業を実現化させたのが菊次郎です。菊次郎が心血を注ぎ、病で倒れるまで超人的な働きをしたことを一番身近で見て理解していたのが京都市吏員(職員)、市会、参事会でしょう。この2通の書状は、良好な信頼関係の下で、共に、京都百年の計である三大事業に取り組んだ証といえる貴重な書状です。高額な慰労金は、菊次郎へ京都市からの高い評価と敬慕のあらわれといえるのではないでしょうか。

陰徳の人
 菊次郎は、父 西郷隆盛 譲りのリーダーシップの持ち主と、手腕から語られることが多いですが、それは一面です。
悲劇から不屈の精神を養い、異文化を和合させ善政を尽くした真の国際人であり、不退転の覚悟で役割を成し遂げたあとは、潔く身を引き、後進へと託した陰徳の人だと、今回の書状から、改めて知ることが出来ました。
西郷菊次郎.jpg(出展:京都市営電気事業沿革誌)

■さいごに
 書状発見後、翻刻は、師 原口泉氏にご教示いただき、志學館大学 授業でも取り上げて頂きました。読み下し・現代語訳には、下田悠真氏、書状画像処理には新出高久氏にお世話になりました。ご教示いただけた青山忠正氏、磯田道史氏、史料を提供いただけた拓殖大学京都市、御子孫 諌山尚子氏、島津典子氏皆様に感謝致します。
また、今回の知見は、以前から西郷菊次郎の寄稿をご依頼下さっていた産経新聞に掲載されました。(九州地方は朝刊、関西は夕刊、関東は掲載なし)企画・制作は本社 牟田氏のご尽力のおかげです。
今回、鹿児島放送KKB 中西氏はいち早く報道下さいました。明治150年の事業のほとんどが終了する今期中に、新しい知見のをお茶の間へとお届けくださった関係者の皆様に心から感謝致します。

付記
■京都市から菊次郎への感謝状
 昨年11月15日は、京都市長室に於いて、京都市、門川京都市長より西郷隆文氏(菊次郎四男 隆泰の長男)へ菊次郎への感謝状が代わりに贈られ、そのことは各メディアで報道されました。その107年前にも京都市から菊次郎へと実際に感謝状が贈られていたことも今回わかりました。
京都市から菊次郎への感謝状 20181115.jpg(筆者撮影)
■さつま町との交流
 100年を超えた現在も、さつま町役場の皆様は、関西に来られる時には菊次郎ゆかりの地 京都を訪れてくださり、昨年10月29日(月)には、現 副町長 上野俊一氏ご一行と聖護院「北御殿」へご一緒できました。同日午後には、京都市役所を表敬訪問され門川京都市長とも面談されました。当時、琵琶湖疏水記念館がリニューアル中であることから、京都市上下水道局が市役所1階でサテライト展を企画され、西郷菊次郎の功績を展示下さっていました。また過日もさつま町役場の皆様は再度京都へいらして下さり、琵琶湖疏水等へご一緒しました。筆者もさつま町へもうかがえ、高橋氏、下麦氏に学ばさせて頂きました。
さつま町ご一行 門川市長を表敬訪問.jpg(筆者蔵)

■京都市長時代の菊次郎の家族写真
 昨年3月、菊草が写っているとされる菊次郎の家族写真が、京都で撮影されたことのみ筆者は考証させて頂きました
写真所蔵者である 島津典子氏(島津斉彬の玄孫の長女であり菊次郎長女ハナの御子孫)より筆者へ、同じ写真をご寄贈頂けました。昨年、龍郷町へ寄贈された写真も今回と同じ複写版です。
思えば、この写真がすべてを物語っていました。背景の建物が現存する「北御殿」であると、京都府京都学・歴彩館 平井俊行副館長から昨年8月にご教示いただけ、聖護院門跡 宮城ご門主のご協力の元、共同の現地調査後、2018年10月15日刊「火の神」(発行:近畿枕崎会)で北御殿」の考察を既に紹介できていたことが、それまでないとされてきた聖護院史料の出現により裏づけされました。
このような経緯からも、御子孫 島津典子氏の御厚意から、この度ご寄贈いただけました。
しかしながら、そもそもこちらの写真は、島津典子氏と奄美大島龍郷町の久保明雄氏、久保笙子氏(「志塾 西郷塾」主催)が交流を積み重ねられてきた中で、龍郷町へ寄贈された経緯があり、ご縁の賜物です。そのことを忘れない為にも、筆者は、寄贈頂けましたがこれからも「島津典子蔵」としてクレジットしていく所存です。
 なお、こちらの写真は、所蔵者である島津典子氏のところに「菊草が写っている」と代々伝わってきた写真です。筆者は、この写真が京都で撮影されたことのみを考証させて頂いたことを改めて記します。(また、大正~昭和時代に鹿児島で撮影された菊次郎の家族写真には、当たり前ですが菊草は写っていないことを改めて記します)
コピーライト付 菊次郎家族写真 北御殿.jpg(島津典子蔵)

■菊次郎ゆかりの家紋入皿と妻久子と娘たちの写真
 今回の書状を拓殖大学へ寄贈された菊次郎次男 隆治の孫 諌山尚子氏とは、昨年2018年3月16日にご自宅を訪問させて頂いた以来、交流を重ねています。ご自宅で家紋入皿や妻久子と娘たちの写真もお預かりしました。菊次郎のお皿は、昨年8月に筆者から龍郷町教育委員会 川元美咲氏へ送りました。龍郷町での展示されたようです。妻久子と娘たちの写真は筆者の手元にあります。この写真の謎も今回判明しました。諌山氏とはつい先日も京都で聖護院等にご一緒し、大山桜にまつわるエピソードもお聞きできました。
菊次郎家紋入皿.jpg(筆者撮影、諌山尚子氏蔵)

■産経新聞
 紙面一面にも掲載頂け光栄です。励みになります。これからも微力ですが寄与できるよう積み重ねていきたいです。
産経新聞 寄稿 2019年3月19日.jpg

コピーライトマーク2019原田良子
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posted by 原田良子 at 12:19| 日記

2018年11月10日

西郷菊次郎京都邸宅は聖護院門跡内の「北御殿」

後記:西郷菊次郎が聖護院「北殿」(=北御殿)で賃料を支払っていた記録を、聖護院古文書研究所より提供頂けました。
この史料は目録にない史料で、聖護院門跡様も今回初めてお知りになれらたとお聞きしました。
この史料により、「北御殿」と推定し昨年10月15日刊『火の神』で公表したことが裏づけられ、関係者一同、喜んでおります。ずっと応援下さっている宮城泰年ご門主、宮城執事長、そして北御殿の可能性をご教示下さった平井俊行氏感謝です

西郷菊次郎が二代目京都市長時代に居住していた京都邸が門跡寺院 聖護院内であったことは、
・2018年9月3日(月)「ニュース630 / 京いちにち」(NHK京都放送局)
・9月19日(水)南日本新聞
・11月6日(火)読売新聞(全国)で報道頂きました。
(この時点で、聖護院古文書研究所より、西郷菊次郎が聖護院に居住していた記録はない。との返答を頂いていました。)
こうして菊次郎の拠点が周知いただけたことで、陰で支えた家族にも光を当てることとなり、大変喜ばしく、関係者の皆様に感謝でいっぱいです。

それまで漠然と聖護院とされながら、それは聖護院門跡をさすのか、それとも聖護院町という町名のことなのか
聖護院側に資料が確認されていないことから不明のままでした。
また、大野盛郁の日記に「聖護院内ノ西郷氏邸」とあっても、同様に、実際に聖護院古文書研究所(聖護院門跡とは別の機関)より聖護院門跡内に菊次郎が居住していた資料がない。と返答を頂いていた以上、聖護院町の邸宅とも考えられることから、聖護院門跡内だと特定できない事は常識であり関係者の間で認識されていました。
この度の報道で紹介された資料には「聖護院町 聖護院内 京都市長宅 西郷菊次郎」と聖護院が2つ続いて書かれ、聖護院町の聖護院内であることが明記され、聖護院門跡内であることの証明となりました。
※菊次郎の住所番地「上り畑44番地」資料については、聖護院ではない積善院も「上り畑44番地」とする資料が、京のアーカイブ(京都府京都学・歴彩館)で公開されています。2018年6月12日に住所番地資料、20日に番地資料のデータ(国立公文書館で公開されている)を龍郷町へと提供された同志社大学 佐野静代教授には比定された「上り畑44番地」には江戸時代以来、建物が建っていないのことを宮城泰年ご門主への聞き取りを含めた現地調査報告書を6月18日に龍郷町、佐野教授に提出しました。
その後、拙稿では聖護院古文書研究所に菊次郎が聖護院門跡に居住を示す賃料を払った記録などが見つかっていないこと、史料がない事実は聖護院門跡に居住していたとは考えられないことから、既存資料から考察し、西門北側にかつて存在した民家を推定したことを明記し、関係者への感謝を記しました。
その後の新聞報道でも、同じく聖護院古文書研究所に史料が見つかっていないことから、住所番地からは菊次郎邸の場所が特定できないこと。番地と邸宅の関係については更なる考察が必要であったため、佐野教授提供の番地資料も新聞社などへ公表の上、各報道機関の判断で、電話番号簿が報道されました。
写真A 電話簿   敬天愛人2018 原田良子 .jpg
一〇四聖護院町 聖護院内 京都市長宅 西郷菊次郎」(明治41年度発行『京都電話番号連合広告簿』京都学・歴彩館蔵)

聖護院内のどこに居住していたかについては、以下ほかで考察しました。
・拙稿@「西郷菊次郎の京都邸宅(菊草の終焉地)について」(『敬天愛人』第36号、2018年9月24日刊、西郷南洲顕彰会刊)
※ここでは、江戸時代から存在した「元 勘定場」が明治以後に改築(新築を含む)されたと推定される聖護院西門入る北側の建物に着目。現 聖護院御門主 宮城泰年 氏 所蔵の古写真からも、寺院とは別空間の民家が存在したことを明らかにし、ここに菊次郎邸の可能性を見いだしました。聖護院古文書研究所(聖護院門跡とは別で青谷美羽所長が委託されている)に菊次郎が居住していたことを示す史料が存在しないことの返答を確認し、もし門跡寺院内であるならば賃料を支払っている記録があるはずであり、門跡寺院内でありながら寺院とは別の空間を想定しました。聖護院史料が存在しないことを明記し、西門北側の民家が菊次郎邸だとは断定せず、その可能性があるとしています。
・拙稿A「西郷菊次郎京都市長時代の邸宅(菊草終焉地)発見」(「火の神」第66号、2018年10月15日刊、近畿枕崎会会報)
※さらに、龍郷町所蔵の菊次郎の家族写真(京都で撮影されたことのみを今年3月に考証した)の背景に写る建物について、8月、平井俊行氏(歴彩館 副館長)からご教示頂け、現存する北御殿であることが共同の現地調査で判明したことを報告しました。

聖護院古文書研究所より
現在(11月10日)も、菊次郎が聖護院に居住していたとされる資料は見つかっていない。との返答を受けています。

報道の際も責任が伴うことから確認し、西郷菊次郎の孫にあたる西郷隆文先生をはじめ、最初に報道頂けた  NHK京都放送局 記者、新聞社、ほか沢山の方と共有しています。

参考文献を書くのと同様、何を見ずに論考したのか明記することは大切でした。

京都市、聖護院ともに資料がない中、現地調査を重ねました。


拙稿@脱稿後、聖護院門跡 現 御門主 宮城泰年氏、宿泊施設「御殿荘」奥西支配人、足立氏らのご理解の元、9月に現地調査を開始し、最終的に10月2日(火)京都学・歴彩館 平井俊行副館長と共同で、さらなる聖護院御殿荘内を現地調査を実施しました。(8月31日に平井氏より北御殿の可能性をご教示頂けていました)
その結果、写真の背景となっていた聖護院北御殿に菊次郎と家族が居住していた可能性があると、現在は結論づけています。(なにぶん聖護院に史料が確認されていない以上、可能性にとどめるほかありません)
そして、北御殿を居室として借りていたなら、聖護院と京都市との間での賃借関係があったと考え、遺された史料を2年以上も探しています。(2016年から聖護院古文書研究所には資料の存在をたずねておりますが資料がないとの返答を得ています)
また、先に想定した民家も北御殿とは広大な庭を介して繋がっており、菊次郎邸宅の候補としての条件を備えていることも考えています。もう1枚の菊次郎の家族写真はこの庭撮影されている可能性を拙稿では考察しています。

 

火の神 北御殿.jpg
(「火の神」第66号)
北御殿についての知見は、上のように想定図とともに拙稿Aに寄稿済です。(10月15日刊)
10月29日(月)には、鹿児島県さつま町の上野副町長御一行、
そして本日11月10日(土)鹿児島から鮫島様御一行のまち歩きでも、北御殿を菊次郎京都邸宅としてご案内しました。
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菊次郎 北御殿 撮影場所.jpg
聖護院の北御殿(幕末指図より)は、一般的には現 聖護院御殿荘の入口から訪れることが可能です。
建物は改築されていますが、基礎部分は変わらないことが現地調査で確認できました。
10月30日、宮城御門主へ『火の神』を持参し、直接、報告させて頂けました。
ここは光格天皇ゆかりの一夜造御学問所に連なる空間です。北御殿は『寺院明細書』添付図(歴彩館蔵)によると、
「居間」との注記があり、間取りからも、日常生活をおくるに相応しいと判断できます。
その他にも研究は進み、新しい知見が明らかになってきています。
順次このブログでもお伝えさせて頂ければと思います。

 

改めて、関係者の皆様に感謝です。

※ 人名の誤字をご指摘頂け訂正致しました。お詫び申し上げます。

コピーライトマーク原田良子2018
posted by 原田良子 at 21:06| 日記

2018年08月26日

9月10日(月)原口 泉 氏 京都講演会(+昼食会)<京都と西郷どん>

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演会申し込みフォームはこちら <申し込み
posted by 原田良子 at 05:11| 日記