2018年03月02日

西郷どんのひとり娘 菊草 の写真、発見! 原田良子

 西郷隆盛のひとり娘 菊草(後の大山菊子)が写っているとされる写真が、西郷菊次郎のご子孫である島津典子氏により西郷菊次郎、菊子の故郷 奄美大島龍郷町へ寄贈されました。菊草が写っていると島津家に代々保管されていた写真だそうです。
筆者は、こちらの写真が京都で撮影れたことのみを考証させて頂きました。筆者がこの女性が菊草であると考証できるはずがなく、したがって、筆者が菊草である。とは記者会見でも断言していないことを改めて記します。
■2018年3月2日(金)南海日日新聞社の記事(その後、奄美新聞社、南日本新聞社 記事、MBCテレビ放映)
 菊草の研究で、菊草が明治42年9月6日午後11時半に、兄 菊次郎が二代目京都市長就任中の京都邸(聖護院町)で亡くなっていることを当時の会葬広告等で確認していました。菊次郎の京都市長時代の邸は菊草の終焉地であることも意義づけ、昨年2017年7月12日の南日本新聞のひろばで掲載頂けました。
(以下、転載)

「京都で西郷子孫の足跡たどる」原田良子
「1908(明治42)年9月10日付の「日の出新聞」(京都新聞の前身)に1本の会葬お礼広告が載っている。
 故人の名は大山菊子、喪主名は大山慶吉、喪主の連絡先に「上京区聖護院町 西郷菊次郎宅」とある。
 大山菊子の結婚前の名前は西郷菊草。(奄美大島から鹿児島へ引き取られてから、菊子に改名した)菊次郎は兄で、2人は西郷隆盛の奄美潜居時代、隆盛と愛加那の間に生まれた子どもだ。
 慶吉は菊子と夫・大山誠之助との間に生まれた長男になる。
 菊次郎は1904年、第2代京都市長に就任すると、上京区聖護院町(現在は左京区聖護院〇〇町と8つの町内に分かれている)に家を構え、鹿児島の妻と子ども5人を呼び寄せた。
 後に夫との別居が決まった菊子も次男、次女と3人、菊次郎宅に身を寄せることになった。
 1911年5月、病を得て2期途中で辞任するまでに菊次郎は、近代京都の都市基盤となる三大事業(@第2琵琶湖疎水、A上水道、B道路拡幅と電気軌道敷)の整備に着手している。
 超人的な激務に腰を据えて取り組むために、家族の支えが必要だと考えたのだろう。
 だが、暮らしの拠点となった「聖護院町の家」がどこにあったのかは分かっていない。私は場所を特定しようと調べる中で、菊子の会葬お礼広告に出合うことになった。
 12歳前後で奄美大島の母のもとを離れた菊子は、その後、一度も奄美に帰ることなく明治42年9月6日午後11時半、47歳の生涯を終えた。
 その思いを知るすべはないが、誰よりも理解してくれていた兄と一つ屋根の下で暮らした京都での日々は安息であったと思いたい。 
 来年は明治維新150年。激動の時代を生き抜いたそんな女性にも光が当たることを願っている。」
(これに加筆し、寄稿文「西郷隆盛のひとり娘 菊子」を昨年2017年に発表。その時に一部訂正もしています。)

 この投稿がきっかけとなり、菊次郎菊草の故郷 奄美大島龍郷町からご依頼を頂け、2018年4月20日からスタートする奄美大島・龍郷町文化財展示室特別企画「西郷隆盛と菊次郎」展で菊草のパネルを担当させて頂くことになった経緯からも島津典子さんが寄贈された写真は京都で撮影されたことのみ考証させて頂きました。
島津典子氏により菊次郎の子どもたちの生年月日もわかり、そこから、明治42年頃に撮られていると推定しました。菊草はその年の9月6日に亡くなってしまうので、その前に撮られたと考えています。
 一方で、同じく、子どもたちの姿からほぼ同時期に撮られたと思われるもう一枚の家族写真(琵琶湖疏水記念館蔵)にも菊次郎の家族が写っており、その写真の台紙には京都の写真師のサインがあることを、以前、確認していました。
そのことからも、今回の写真も京都で撮影された可能性が高いと考えました。
(あくまで、筆者は京都で撮影された事を考証したに過ぎず、写真の女性が菊草である。と考証したのではありません)
先述の南日本新聞ひろば(2017年7月12日)で、来年は明治維新150年。「激動の時代を生き抜いたそんな女性にも光が当たることを願っている」と書きましたが、2018年の今年、菊次郎のご子孫により菊草の写真が寄贈され菊草に光が当たりました。
写真の中の菊草の表情、たたずまいから、たったひとりの兄とひとつ屋根の下で暮らした京都邸での日々は、やはり、平穏であったのではないかと感じます。
菊草は、この写真が撮られたあとに亡くなったと考えます。(後記:死因は不明でしたが後に明らかにできました)
昨年、見出した「会葬お礼広告」(前後の記事も)は、菊次郎の京都邸へ菊草が身を寄せていたことがわかりました。
大山菊子 会葬記事 (1).JPG

「亡母菊子儀葬送ノ節ハ遠路態々御会葬被成下難有奉感謝候乍略儀不取敢以紙上御申上候
 上京区聖護院町西郷菊次郎宅
 明治四十二年 大山慶吉
 九月十日  親戚一同」

喪主が夫 誠之助ではなく、長男の大山慶吉であり、菊子の姓も大山姓であることから、離婚(籍を抜いていない)ではなく、別居であったと考えます。(後記:別居の原因も明らかにできました)
さらに前後の記事で、菊子が死亡した日時と場所は、明治42年9月6日午後11時30分 京都邸宅で亡くなっていたことも判明しました。(現在刊行している出版物には死亡時刻の記述は見当たりませんでした)
大家族で暮らしていたので、家族に見守られて亡くなったと考えたいですが、兄 菊次郎は当時、厳しい市政の中、京都と東京を往復しており、実際に臨終に立ち会えたかどうかは不明です。
お葬式が3日後の9月9日であったことは、市長の妹として、盛大な式の準備のためであったと推定できます。
また当時、長男 敬吉 も東京にいたことからも、近親者が参列できるための時間的配慮もあったと考えられます。
六曜でも、8日赤口、9日先勝、10日友引であることからも9日としたのかもしれません。
菊子は、いったん京都の大日山墓地に埋葬された。(このことも現在刊行されている本や論文等に記述が見当たりません)
その後、時期は不明ですが東京都杉並区の大円寺へと改葬され現在に至ります。

菊次郎が大家族で暮らし、菊草が亡くなった京都邸はどこなのか?
その場所が判明すれば、菊草にも光が当たると考え、調べを進めたが、現時点で、正確な場所は明記されていませんでした。
すでに出版されている二冊の本中にある京都邸をあらわした箇所を抜粋すると、
  1. 「当時市長の官舎がなく、市では平安神宮に近い聖護院に家を借り官舎に替わる市長の居宅とした。」(西岡良博「行雲流水」文藝書房刊、1998年)
  2. 「当時市長の官舎はなく、市では平安神宮に近い聖護院を官舎として借りて市長の居宅としていた。」(佐野幸夫「西郷菊次郎と台湾」南日本新聞開発センター、2002年)
下線に若干の違いがあるだけでほぼ同じ表現です。

聖護院は皇室とゆかりの深い門跡寺院であり、周辺の地名の呼び名も聖護院と呼ばれていることは本寺院に由来しますが、
現在、聖護院と名のつく町名は、左京区に8町に及びます。(町名変遷の中で、現在、上京区聖護院町は存在しない)
それらを踏まえてみると、
  1. 「聖護院に家を借り」の聖護院は町名や呼び名の可能性もあり
  2. 「聖護院を官舎として借りて」は寺院自体を官舎として借りているように受け取れる
これらのことから、2016年11月、直接、門跡寺院・聖護院に問合せたところ、菊次郎や京都市が聖護院を借りて住んでいた記録はなく、そのような事実も把握されていないことが判明しました。
現在、聖護院を官舎として借りていた。という確実な記録は、聖護院、京都市、拓殖大学、龍郷町にも見つかっていません。
そのことから、この聖護院説は、西岡氏が当時ご子孫からの聞き取り等で描かれた。と考えています。
当時、市長官舎はなく、菊次郎が退職した後、大正時代になってから南禅寺に建設された。一番古い住宅地図により、それは瓢亭(無鄰菴の隣)の向かいにあったことを確認しています。そのことから、正式な住所を特定できる資料を探すことから始めました。
しばらくして『京都府職員録』(明治40年版)に「市長 西郷菊次郎 上京区聖護院町」とあるのを見出せました。
同郷の助役の 大野盛郁 も同町とある、(大野に関してはその後場所が判明)
京都府職員録.jpg
このような資料から聖護院説が導きだされたとも考えられますが、聖護院と聖護院町は別であり、現在のように番地がないのは、当時の鴨川以東一帯に宅地は少なく、町名と市長名だけで郵便物が届いたことなどが推測できます。
他には当時、ごく一部の人しか加入していなかった電話番号も「104番」という比較的若い番号であることがわかりました。
その後、菊次郎市長が聖護院町に居住する以前の京都邸もわかりました。
今回の菊草が写っているとされる実物の写真と、菊草が亡くなった菊次郎の京都邸について調査報告は、奄美大島・龍郷町文化財展示室特別企画「西郷隆盛と菊次郎」展でご覧になれるように目下制作中です。
猶、展示とは別に論文化への準備のため、渉猟したすべての資料をブログ上で公表しておりません。
その後の経緯は、西郷菊次郎京都邸宅は聖護院門跡内の「北御殿」 を参照ください。
「西郷隆盛と菊次郎」展
場所:奄美・龍郷 島ミュージアム(龍郷町生涯学習センター「りゅうがく館」2階)
期間: 平成30年4月20日〜
時間: 9時〜17時
館料: 無料
また、明治維新150年・西郷隆盛没後140年を記念し
エフエムたつごう」と「京都三条ラジオカフェ」共同制作番組(2018年4月1日スタート)
西郷菊次郎の生涯をテーマにした西郷菊次郎ラジオドラマ
『奄美とセゴドン~京都市長になったシマッチュ~』
にゲスト出演させて頂くことになりました。光栄です。(第4回、4月22日放映予定)
※エフエムたつごう http://fmtatsugo.amamin.jp/
龍郷町では、西郷隆盛、愛加那、西郷菊次郎 に続き、菊草の幟旗が今年初めて建ちました。
是非とも、菊次郎と菊草が生まれ育った龍郷町で体感して頂ければ幸いです。
※ご子孫 島津典子様、竹内恵子様と交流を続けてこられた志塾・西郷塾の皆様、
龍郷町、学芸員の川元美咲さん、関係者皆さまのご尽力のおかげです。有難うございました。
のぼりはた.jpg

※ お問い合わせは以下のフォームよりお願い致します。原田良子拝
http://sego.sakura.ne.jp/postmail/postmail.html
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2018年01月26日

幻の京都薩摩藩邸「岡崎屋敷」発見 原田良子

 幻の京都薩摩藩邸「岡崎屋敷」については、幕末の京都案内用に出版された古地図の何版かには登場するもの(註1)正確な位置や規模、存続期間などは全く不明でした。昨年2017年12月、古地図研究第一人者の伊東宗裕氏(佛教大学非常勤講師)のご教示を受けて、従来の古地図とは全く別系統の古地図を確認しました。以下、その経緯と成果を報告し、掲載いただけた原口泉氏の連載記事(2018.1.26 07:00 発信)を参照下さいませ。
原口泉幻の京都薩摩藩「岡崎屋敷」」(産経新聞「今こそ知りたい幕末明治」シリーズ

http://www.sankei.com/smp/region/news/180126/rgn1801260007-s1.html

(後記:その後、読売新聞 「維新150年」シリーズでも取り上げて頂きました。(2018年3月30日付))


 それは、明治の篤志家 鳩居堂の熊谷直行(第8代当主)が編んだ『鴨川沿革橋図』(京都女子大学所蔵)という巻物のなかに納められていた幕末の鴨川架橋などについてまとめたものでした。

 絵図は 御幸橋(現・荒神橋)の解説に付したもので、幕末に手狭な京都市中(洛中)から岡崎の地(洛外)に多くの藩邸が建設されるようになった経緯から、そこに駐屯する人員を御所の守衛(禁裏守護)に従来の二条橋や三条橋のほかに橋の増設が不可欠となり、西本願寺の献資によって、迅速に架橋された等の解説があります。地図は従来の古地図とは異なり、比較的正確に道路の形状やその中におさまる屋敷の輪郭が描かれていました。さらに薩摩藩屋敷の部分には

元治元年四月外柵成 慶応四年取払其後此処ヲ分割シテ横須賀大聖寺秋田富山ノ邸ヲ設クとあり、

面積も「凡 五万二千二百十坪」と記載があります。隣接する越前屋敷や加賀屋敷の坪数も明記されている点が画期的です。

 

 岡崎屋敷の地に記入されていた 「ヌエ塚ヒメ塚 」という古墓は、昭和30年まで、現・岡崎グランド・公園に残っており

そこかた屋敷地を現代の地図上にほぼおとすことができます。(伊東宗裕氏ご教示)

 (ヌエ塚、ヒメ塚は皇室の陵墓参考地で、957年に発掘調査されて、 古墓ではなく古墳時代後期の古墳であることが判明しています。)

 岡崎屋敷は、甲子園球場個分の広さで、現在の岡崎グランド・公園、ロームシアター京都、平安神宮のほとんどが岡崎屋敷です。(赤枠:薩摩藩岡崎屋敷、黒枠:越前藩屋敷)

岡崎屋敷の現在の範囲.jpg

今回の史料をもとに、幕末の諸藩邸の位置図を作成。(協力:新出高久)

 

岡崎 諸藩屋敷図.jpg

 幕末の諸藩邸の位置図コピーライトマーク2018原田良子、新出高久

 

 現在の岡崎屋敷周辺の写真です。

 

岡崎屋敷 現在1.jpg岡崎屋敷 現在2.jpg

 

岡崎公園、テニスコート                平安神宮

岡崎屋敷 現在3.jpg岡崎屋敷 現在4.jpg

ロームシアター京都              

 

慶応二年正月、京都に滞在していた薩摩藩家老 桂久武は上京日記には「此日岡崎御屋敷毎月例之通之一陳調練有之由」と岡崎に設けられた薩摩藩の調練場での月例訓練についての記述があります。

慶応2年正月21日(諸説あり)薩摩と長州は薩長同盟を結びました。場所は、一昨年2016年に特定された小松帯刀寓居の近衛家別邸「御花畑」です。(詳細は本ブログ内「薩長同盟締結地「御花畑」発見の経緯」を参照下さい)

 

桂久武の日記はこの前後のものです。同盟が結ばれたたあと、桂久武は小松帯刀とともに洛西衣笠山の麓に新たに調練場を設ける調査もしていることも記述があります。そこは、二本松薩摩藩邸(現京都市上京区)から西へ約3キロ、山城国葛野郡小松原村にあった薩摩藩調練兵場(現・立命館大学周辺)です。以下、原口泉氏の記事を参照下さい。

 

■原口泉「兵糧と弾薬から見た戊辰戦争(下)〜小松の縁〜」(産経新聞2017.1.27 07:00今こそ知りたい幕末明治」シリーズ

http://www.sankei.com/region/news/170127/rgn1701270046-n1.html

 

岡崎屋敷に5万坪があるにも関わらず、薩摩藩は調練場を新たに設けています。一昨年、坂本龍馬が寺田屋で幕吏に押収された薩摩藩から長州藩に渡されたとみられる書き付けの内容が鳥取藩士の記録からわかりました。(「京坂書通写」(鳥取藩県立博物館所蔵))これらのことから小松や西郷はやはり本気で長州藩と軍事同盟を結び、場合によっては決戦もやむなしとの決意を固めていたと考えます。

慶応三年末の小御所会議の時点で京都での薩摩の軍事力は相当のものとなっていたと考えます。戊辰戦争では、これら洛外に確保された調練場で訓練された精兵が錦の御旗とともに進撃しました。そして、戊辰戦争後、岡崎屋敷は御花畑屋敷に付設されていた「御花畠水車」とともに西郷隆盛の指示によって撤去されました。(原田良子・新出高久「薩長同盟締結地「御花畑」発見」(西郷南洲顕彰会刊『敬天愛人』第34号、2016年9月)

 

また、前述した御幸橋の解説図(『鴨川沿革橋図』(京都女子大学所蔵))の薩摩藩屋敷の箇所には「元治元年四月外柵成 慶応四年取払其後此処ヲ分割シテ横須賀大聖寺秋田富山ノ邸ヲ設ク」(元治元年4月に外柵が成され慶応4年(月日は欠くが)取り払われ、その後、此処を分割し、横須賀、大聖寺、秋田、富山邸を設けた)とあり、その内容を裏付ける慶応4年の古地図も存在します。(原田所蔵)

古地図 秋田屋敷など.jpg

「御花畑」に付設されていた「水車」も精米施設で兵站をになっていたとの考察は2016年論文に書きましたが、幕末薩摩藩の京都における軍事的な存在感は幕末政治史を考えていく上で重要な要素であり、今回の発見は意義深く、今後も深めていきます。

(以上、これらの考察は平成30年4月刊『地名探究』(京都地名研究会刊)にも掲載済(受理、平成29年12月末)


 

 京都の南北を流れる賀茂川(鴨川)以東、岡崎は、1895年に平安遷都1100年記念事業として第4回内国博覧会が開かれ、それにあわせて平安神宮が創建された地です。また、それ以前には京都疏水が完成しており、幕末の様子がまったくうかがえなくなっている。現在の岡崎は、京都府立図書館、近代美術館、動物園などがあり、京都の一大文化ゾーンとなっています。

また、岡崎屋敷内にあり、場所特定の大きな要因となった鵺塚、秘塚は、現在 移設されています。(撮影:原田良子)
鵺塚.jpg   秘塚.jpg

註1:桐野作人氏 は、南日本新聞 連載「さつま人国誌」で、鴨東の地に「薩州ヤシキ」とある古地図を見出され、岡崎屋敷を現・岡崎中学校あたりと想定され、岡崎屋敷に触れられている文献等についても紹介された。(桐野作人『さつま人国誌 幕末・明治編3』 南日本新聞社、2015年10月刊)一方、伊東宗裕氏(佛教大学非常勤講師)は、まったく違う「薩州ヤシキ」とある古地図を見出され、所蔵者の長谷川家住宅での「古地図展」を監修されたことからも、京都新聞で紹介されました。(2016年11月)
今回、ご教示いただけた伊東先生、そして先行研究者である桐野先生に改めて感謝を記します。
また、いち早く、一般読者へお届けくださった原口泉氏、作図協力の新出高久氏にも感謝です。

※ お問い合わせは以下のフォームよりお願い致します。原田良子拝
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2016年11月20日

京都新聞:原田良子「『御花畑』室町通に正門か」

『御花畑』室町通に正門か  客人迎える茶室など存在
2016.09/27 の京都新聞朝刊 に寄稿を掲載いただけました。
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薩長同盟から150年目の今年5月、締結地とされる「御花畑」(近衛家別邸、小松帯刀寓居)の場所を現在の京都市上京区森之木町(上京区上御霊中町、北区小山町にまたがる)と特定する公文書・京都府行政文書を発見することが出き、京都新聞6月10日朝刊で紹介いただきました。
「御花畑」は、近衛家と縁戚関係にあった島津家が借用し薩摩藩家老の小松帯刀が居住していた邸宅のこと。
幕末史に詳しい原口泉鹿児島大学名誉教授によると、慶応2(1866)年1月、薩長同盟が小松寓居で結ばれたというのは戦前からの定説であり、『鹿児島県史第三巻』にも明記されている。

 森之木町で届け出
発見した資料は、先般一時閉館した京都府立総合資料館に所蔵されている膨大な京都府行政文書の中にあった。
「貫属士族受領並拝借買得邸一件」(土木課文書)という明治4年の簿冊の中にあり、近衛家が「上京七番組室町通鞍馬口下ル森木町」(現在の森之木町)で届け出た文書と邸宅地を示した添付図によって、まざまな新事実が明らかになった。
御花畑は約1800坪という広大な敷地で、「瓦住居二階建」「瓦平家長屋」「土蔵」などの建物があったことが判明。
敷地は現在の森之木町、上御霊中町、小山町の三町にまたがっていたが、近衛家が「森之木町」として届け、府が受理した公文書であることから、「御花畑」は森之木町に所在と表現した。
また、この文書には「名代」がたてられている。登谷一伸宏氏の「近世の公家社会と京都−集住のかたちと都市社会ー」(思文閣出版)によると、公家が町人の土地を買得する場合、町役などの負担を確実にするため、町側は代理人をたてることを求めたという。
「御花畑」もそのケースだったことを考えると、近衛家が届けた森之木町に対して義務を負っていたと考えるのが自然であり、屋敷所在地も同町と表現するのが適当である。
 舞台ふさわしく 
一方、鹿児島県では「御花畑絵図」(県資料センター黎明館所華玉里島津家資料)が幕末薩摩外交展で5月24日初公開され、27日に閲覧した。
京都府文書にもあった門3ヶ所、門番所、社なども描かれ、「室町通森之木町、鞍馬口通小山町」の記述も確認した。
屋敷の位置表記は、府文書添付図にある「間口」「奥行」の記述から鞍馬口通御門が正門であり、小山町だ。という見方がある。
しかし、絵図の門の表記は全て「御門」であり、鞍馬口通御門を入ってすぐ右手には台所があるので、普段使いの門と考える。
一方、室町通は当時南北を貫くメインストリート の一つであり、それに面した門は客人を迎えるための御花畑や茶室、能舞台に直接つながることからも特別な正門と理解でいきる。裏門とはいえない。
御花畑はこのように小松の私邸にとどまらず規模も機能も準藩邸といえ、薩長同盟の舞台としてふさわしい屋敷であった。
ところで、明治維新150年目となる2018年のNHK大河ドラマの主人公は西郷隆盛であると今月8日発表された。
今回の発見に至る御花畑の場所を森之木町と想定した根拠の一つが、西郷隆盛文書の中の「御花畠水車を移設せよ」という記述である(「大西郷全集 第二巻」平凡社)。
戊辰戦争の後に出されたと推定される指示書である。
水車には水路が必要だが、森之木町周辺には賀茂川の水を引き、室町頭から禁裏(御所)へと流れる御用水路が流れていたことを古地図で確認した。
御花畑絵図でも古地図通りの屈曲した水路が描かれていた。
当時水車は主に精米に使われ、幕末、京に多数駐留した薩摩藩士や使用人らの兵糧に必要だったと推測する。
明治維新後、不要となった水車は指示通り移設されたようで府文書にも絵図にも水車は載っていない。
そしてあまり知られていないようだが、西郷隆盛の長男西郷菊次郎は2代目京都市長となり、第三琵琶湖疏水の完成に尽力した。くしくも、父子そろって京都の水利に関係したことになる。 
明治維新への転機となった薩長同盟は謎が多かったが、多くの先行研究で解明か進みつつある。
そうした成乗も取り入れつつ、西郷隆盛と縁の深い京都が大河ドラマでも描かれることを期待したい。(以上)

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同ブログ「御花畑」発見の経緯 と合わせてご高覧頂けたら幸いです。
posted by 原田良子 at 19:37| 日記