2019年09月03日

有待庵、「御花畑」邸(近衛家別邸・小松帯刀京都寓居)からの移築について

■はじめに

大久保利通の茶室「有待庵」は、近衛家別邸「御花畑」(小松帯刀京都寓居・薩長同盟締結地)の茶室を貰い受けたと伝わります。

筆者は2016年、御花畑邸にあった茶室2棟の平面図と有待庵の内部写真を検討した結果、完全に同じかたちでの移築ではない。ことを考察しました。(拙稿「薩長同盟締結の地「御花畑」発見」(西郷南洲顕彰会刊『敬天愛人』第34号2016年、))

その上で、御花畑邸の茶室の間取りと大久保家に伝わる有待庵の写真(現存確認した時の有待庵と同じ間取り)から、

御花畑邸の2棟の茶室のうち、「北茶室」が大久保利通旧邸に移し設けられたと考え、京都新聞 寄稿で公表しました。

(※ 下記の模式図内 右下に〇で囲んだ茶室、便宜上、「北茶室」と称した。下が北方角。)

北茶室 御花畑邸絵図模式図.jpg

コピーライトマーク御花畑模式図2019(「御花畑絵図」(鹿児島県歴史資料センター黎明館蔵、玉里島津家資料)から模式図(協力:新出高久氏)

 

大久保利通旧邸(以後、大久保旧邸)の間口の狭い町屋の奥庭の面積に、御花畑の茶室を全く同じかたちで移築することはそもそも物理的にも不可能です。

即ち、
御花畑の茶室が解体され、その部材で大久保旧邸の奥庭に合わせて改造され、有待庵に仕立てられたと推察しています。

京都新聞 寄稿 御花畑絵図と符号 2019年6月13日(木).png

(「大久保利通茶室「有待庵」歴史的価値と保存を考える」2019(令和元年)6月13日(木)京都新聞朝刊文化8面)


 

『有待庵を繞る維新史談』

大正3年に大久保利通旧邸を買い戻した三男 利武(当時、大阪府知事)は、父 利通が西郷隆盛や木戸孝允、岩倉具視らとの密談の様子を以下のように語られています。

「この旧宅に利通が引き移りましてから来客の出入りも多く、幕府からも終始眼を附けられ、時々怪しき者も徘徊し、戸外より立ち聞きする者もあり、警戒の必要もあるので、小松帯刀が京都を去り帰藩することになつた際、小松に請ふてあの茶室を貰い受け、人目に立たぬこの旧宅の奥に移し設けたもので、已に薩長連合の密談の際に用いられたものが、所変わり手其後も亦この旧宅に於いて、幾多重要なる国事の密談用に供せられたのは実に珍しく、貴重な使命を勤めた史蹟とも云うべきであると思ふのであります」

(大久保利武の講演『有待庵を繞る維新史談』(昭和19年同志社刊)28頁。以後、『維新史談』)

講演録は、利武の息子 利謙氏(歴史学者)が引き継ぐかたちでは編まれ『維新史談』は完成しました。

維新史談.png

(大久保利通の玄孫、利武のお孫 大久保洋子様より賜りました)


 

 ■大久保利通の茶室

利武が旧邸を手にいれるまでの間、旧邸は改築されていない様子が講演録にもあり、利通が居住していた当時のままで間口の狭い京町屋の敷地奥、面積の狭い奥庭に位置した大久保利通の茶室「有待庵」もそのまま残っていたと考えるのが妥当です。

たとえ、数十年経っていようが、現代のようにリフォームや改築が簡単に行える時代ではありません。
古くなろうが、すべて解体するような理由は見当たりませんし、
何よりも、地震等で建物が倒壊するような自然災害は明治期に起こっておらず、解体は考えられません。

現存確認できた時の有待庵は、大久保家に伝わる有待庵の写真とまったく同じ間取りでした。現在まで原型をとどめなから、補修が重ねられ、残されたといえます。それは、利通ゆかりの茶室と大切にされてきた証拠と考えます。

 

 ■土蔵の存在、勝田孫弥著『甲東逸話』

有待庵の東隣には当時から土蔵があり、5月9日(木)現存確認時にも土蔵はあり、外壁で補強されていたものの内部はかなり古いことがわかりました。そのことからも、有待庵の位置は当時からほぼ変わらないと現時点で推定しています。

大久保利通の逸話を集めた『甲東逸話』(勝田孫弥著、昭和3年)によると、南隣の家も長州藩士潜伏用に借りられており、庭を介して行き来できたとあり、土蔵付近の潜戸についても触れられている。

■大久保家の証言
何よりも、利武自身が、この茶室は父 利通の茶室である。と語り、歴史学者の利謙もそれを引き継いでいます。

利武が大久保旧邸を買い戻したとき、父の茶室がたとえ古くなっていたとしても、全面的に解体し、全く別の形の茶室へと作り変えるでしょうか? 
有待庵は父の茶室である。と利武が伝え、当時の写真と今回確認した有待庵の間取りがそのままであることは、時代を経て、茶室として使われなくなっても、間取りをそのまま残す努力をされていることから、紛れもない大久保利通の茶室である。と考えます。

大久保家より 有待庵.jpg

 

(大久保利通ご子孫、現ご当主 大久保利泰氏ご提供)

有待庵 室内撮影 20190509 .JPG

 

(令和元年5月9日(木)現存確認時に筆者撮影)

 

 有待庵が大久保利通の茶室ではない。とすることは、利武が虚偽を言っている。とされるのと同じことです。

仮に、大久保利通の茶室ではない。とするなら、根拠を示して欲しい。裏付ける資料や記録等から批判して欲しい。利通の茶室ではない。と断定されるなら。研究が前に進む批判であって欲しいと願います。

もちろん、昭和時期に母屋と切断され単体となった有待庵の屋根や壁に手が入っていることは現存確認した時点で既に把握しています。

有待庵が間取りがそのままで修理を重ねられていることも、京都新聞寄稿で紹介しています。(以上)

posted by 原田良子 at 14:38| 日記

2019年07月06日

大久保利通の茶室「有待庵」、市有化へ(皆様の善意のおかげで)

大久保利通の茶室「有待庵」は、所有者のご意向で京都市へ寄附譲渡されました。
大久保利通の茶室、京都市が所有方針 市有地に移築し公開へ (2019年5月30日 京都新聞) 
有待庵の現存を確認できた5月9日(木)から約3週間後に 所有者、京都市、関係者皆様の善意のおかげで移築保存の道が開けたことは異例であり、誠に喜ばしく、感謝でいっぱいです。
今後、市有化された有待庵が移築復元された後、一般公開される予定で、子どもたちや修学旅行生が維新の現場に直接触れ、歴史を学べる機会として活用されればこんなに嬉しいことはありません。
このニュースは新聞媒体、NHK京都放送局などにより広く報道され、
今朝の『天声人語』(朝日新聞 全国)も有待庵を取り上げて下さいました。
天声人語.JPG
(天声人語)密談と茶室 ← こちらからもご覧頂けます。(朝日新聞デジタル:有料)

■それは大久保利通の命日前後のことでした。
かねてから研究対象であった「有待庵」を、大久保利通旧邸跡の住宅地解体現場で現存確認できた5月9日は、せめて「記録保存」が可能になるようにと願い、翌日には京都市文化財保護課に調査に来て頂けるよう働きかけました。(決定した調査日20日(月)は所有者のご厚意で解体工事を4時間だけストップして頂けることになりました。)有待庵の現存が確認されたことは、5月14日(火)京都新聞により報道がなされました。奇しくも、その日は大久保利通の命日でした。

尚、大久保利通の茶室「有待庵」は、近衛家別邸「御花畑」(小松帯刀京都寓居・薩長同盟締結地)の茶室を貰い受けたとされていますが、筆者は2016年に、完全に同じかたちでの移築ではない ことを考察しています。(拙稿(「薩長同盟締結の地「御花畑」発見」(西郷南洲顕彰会刊『敬天愛人』第34号2016年)
それは、御花畑絵図の平面図を見れば一目瞭然ですし、大久保旧邸の間口の狭い町屋の奥庭の面積に、御花畑の茶室を全く同じかたちで移築することはそもそも物理的にも不可能です。拙ブログや、京都新聞 寄稿(2019年6月13日(木))においても書いていますが、御花畑の茶室が解体され、その部材で大久保旧邸の奥庭に合わせて改造され、有待庵に仕立てられたと考えています。
詳しくは、拙ブログ(5/14) 大久保利通の茶室「有待庵」現存を確認 もご参照下さい。
有待庵 現存確認 2019年5月9日.jpg
現存確認した有待庵(2019年5月9日筆者撮影) 
入口にはこのように伐採された庭木や廃棄物が高く積まれて、周囲からも中に入ることが出来ない状況でした。
有待庵 室内撮影 20190509 .JPG
有待庵 内部(2019年5月9日筆者撮影)
かろうじて開けられた小窓から右手を差し入れスマートフォンで撮影したところ、
以下の大久保家に伝わる古写真から把握していた間取りと同じであることがわかり、
有待庵は現存していたと結論づけました。
大久保家より 有待庵.jpg
「有待庵」(現 大久保家ご当主 大久保利泰氏ご提供)

■大久保利武の講演録『有待庵を繞る維新史談』(昭和19年同志社刊)より※講演は昭和17年催行。
大久保利通の三男 利武(当時、大阪府知事)は、父 利通が西郷隆盛や木戸孝允、岩倉具視らとの密談の様子を以下のように語られています。
「この旧宅に利通が引き移りましてから来客の出入りも多く、幕府からも終始眼を附けられ、時々怪しき者も徘徊し、戸外より立ち聞きする者もあり、警戒の必要もあるので、小松帯刀が京都を去り帰藩することになつた際、小松に請ふてあの茶室を貰い受け、人目に立たぬこの旧宅の奥に移し設けたもので、已に薩長連合の密談の際に用いられたものが、所変わり手其後も亦この旧宅に於いて、幾多重要なる国事の密談用に供せられたのは実に珍しく、貴重な使命を勤めた史蹟とも云うべきであると思ふのであります」(『維新史談』28頁)
講演録は、利武の息子 利謙氏(歴史学者)が引き継ぐかたちでは編まれ『維新史談』は完成しました。
利武が旧邸を手にいれるまでの間、旧邸は改築されていない様子が講演録にもあり、利通が居住していた当時のままで間口の狭い京町屋の敷地奥、面積の狭い奥庭に位置した大久保利通の茶室「有待庵」もそのまま残っていたと考えるのが普通です。
また、有待庵の東隣には当時から土蔵があり、現存確認時、土蔵は外壁で補強されていたものの内部はかなり古い土蔵でした。そのことからも、有待庵の位置は当時からほぼ変わらないと現時点で推定しています。
何より、利武自身が、この茶室は父 利通の茶室である。と語り、歴史学者の利謙もそれを引き継いでいます。
利武が父の茶室を全面的に解体し、全く別の形の茶室へ作り変えるでしょうか? 有待庵は父の茶室である。と利武が伝えていることが、今回の有待庵が大久保利通の茶室とする所以です。
もちろん、昭和時期に母屋と切断され単体となった有待庵の屋根や壁に手が入っていることは現存確認した時点で把握しています。有待庵が間取りはそのままで修理を重ねられていることも、京都新聞寄稿で紹介しています。

■人々の善意のおかげ
有待庵は文化財保護の対象ではありませんでしたが、とにかく調査をして頂きたい。と考えました。
市の調査により、有待庵の来歴である薩長同盟締結地「御花畑」邸(近衛家別邸・小松帯刀京都寓居)から譲り受けたとされる移築伝承を少しでも裏づけられればと考え、一点突破の思いで調査を実現して頂けるよう働きかけました。そして、市文化財保護課は動いて下さいました。
薩長同盟締結後 「御花畑」については、こちらの拙ブログも参照下さい→ 「御花畑」発見の経緯
有待庵の現存確認の初報がなされた後は、様々な方から有待庵について関心や心配を寄せられご連絡を頂きました。そのお気持ちは有難くも、筆者は責任をもてませんので、「有待庵については京都市へお願いします」とお伝えし、すべて京都市へと繋いでおります。(連絡については記録されています)
前提に、筆者は仲介者でも窓口でもありません、当初から研究の立場のみで関わらせて頂きました。
それが可能となったのは、
当初から有待庵保存へと京都市へ提言下さった歴史学者 磯田道史先生や
初報後に、有待庵の保存へと一歩踏み出してくださった京都市のおかげです。
そして、市有化として移築保存の道が開けたのは、所有者が京都市へ寄附譲渡がなされなければ実現していません。
このように、所有者や声をあげて保存へと動いて下さった皆様の善意のおかげで、有待庵は消滅を免れ残ることとなりました。
磯田先生のご見解、ご高説は、先生の読売新聞連載に詳しく書かれています。
「薩長密談の茶室 移築」(磯田道史の古今をちこち 読売新聞2019年6月13日)
磯田先生 をちこち 移築.jpg
以下、から全文がご覧頂けます。

■これまでの有待庵についての報道は以下です。(現時点でネット上でご覧頂ける記事となります)
(他、読売新聞も報道下さいました。ネット上でご覧頂けないので上記にはございません)
地元 京都新聞は初報から取材下さっています。
実際の記事は、京都新聞社 読者サービスカウンター でお求め頂けます。
京都新聞 掲載紙.jpg

■御花畑からの移築説について
2019年5月14日(火)には、筆者の寄稿が京都新聞に掲載されました。
「大久保利通 茶室 有待庵 歴史的価値と保存を考える」(尚、見出しの「御花畑」絵図と符号 は、京都新聞整理部の方が考えて下さいました)
京都新聞 御花畑絵図と符号 .JPG
内容については、改めて、紹介させて下さい。
京都新聞 阿部記者、関係者皆様にお世話になりました。有難うございます。

■おまけ
産経新聞 京人.JPG
6月17日(月)産経新聞 京都総局の「京人」にも掲載頂けました。
カメラマンでもあられた田中記者にひきだして頂けました。感謝です。(ドアップ失礼致します・笑)
(後日、修正あり)

※お問合せ等はお手数ですが以下のフォームよりお願い申し上げます。原田良子拝
posted by 原田良子 at 01:16| 日記

2019年05月14日

大久保利通の茶室「有待庵」現存を確認

後記:2019年5月9日(木)15:55、大久保利通の茶室「有待庵」の現存を確認できました。その時からなんとか保存できないものかと望みましたが、所有者は行政でも企業でもなく個人です。既に解体工事に入っている段階で、移築保存を望むことは、工事全体の工程延期を伴います。それらすべて所有者である個人にかかってきます。個人が決断をせまられる現状の中、良い方向へ向かうよう、関係者は最善を尽くして下さっていますので静観をお願い致します。
現存確認後すぐに、かねてから研究でお世話になっている平井俊行先生(歴彩館 副館長)へ調査頂けるよう打診させて頂きました。文化財保護にも理解ある京都市在住の歴史学者 磯田道史先生にも相談させて頂きました。
10日(金)09:30、京都市文化財保護課へ出向き、中川慶太課長と面談させて頂きました。現存確認後すぐに作成した資料「大久保利通旧邸 茶室 有待庵について」(下記)を提出し、調査に来て頂ける運びとなりました。
何よりも、所有者より調査の為に工事の一時ストップの許諾を頂けました。御厚意のおかげで、調査の為に4時間頂けました。
尚、発言には責任が伴いますので、「有待庵」の現地調査に入って頂くことが可能になった段階での以下の報道では、筆者は「記録保存を目指す」という表現にとどめています。移築保存を掲げることは、すべて個人である所有者へのプレッシャーとなります。初動の関係者は現実的な対話を積み重ね最善の道を探っています。どうかご理解頂けますよう、よろしくお願い申し上げます。関係者皆様に感謝です。原田良子

市文化財保護課へ持参した資料「大久保利通旧邸 茶室 有待庵について」(以下、一部抜粋)
有待庵 報告書.jpg
 待庵とはいったん人手にわたっていたこの屋敷を大正3年に買い戻した大久保利通の三男 利武(当時大阪府知事)が内藤湖南らの賛意をうけて命名。 また、有待庵の扁額は西園寺公望揮毫。

2 昭和17年に同志社が主催したこの庵での利武講演会によれば、慶応2年に大久保はこの屋敷を手に入れ、その後小松帯刀寓居の「御花畑」より茶室を移築した。

                      

3  大久保はこの茶室を密談に利用したエピソードが講演で触れられている。なお、この講演会には当時の京都市長篠原英太郎氏も参加。

 

4 屋根が板葺から瓦屋根、母屋との渡り廊下切断などの改変を受けているが、基本的な構造は完全に残っている。

 

5 近年発見の「御花畑」絵図には、完全に一致する茶室はないが、絵図には茶室が二棟描かれており、そのうちの一棟を解体した部材を活用して再建築した可能性が高い。専門家による調査によりその可能性も明らかになるであろう。

 

■この茶室は、その来歴からかつて大久保、西郷、小松帯刀らが利用した歴史的価値の高い茶室遺構であり、中京区土手町に残る木戸孝允旧邸と同様の意義をもつ建物である。

■昭和2年には「大久保利通旧邸」石碑が京都市教育会によって建立され、すでに顕彰された周知の遺蹟である。

■その意義を考慮するならば、今回取り壊し前に何らかの手段で現状保存、移築保存、あるいは記録保存などがなされるべきものと考える。(以上)

 

※後記:利武が買い戻したのは大正3年であることを訂正致します。


■はじめに
今朝2019年5月14日(火)京都新聞 朝刊 社会1面に掲載頂けました。
「大久保利通の茶室現存」「上京・住宅解体現場 在野の研究者確認」「小松帯刀邸から移築 調査、記録呼び掛け」
奇しくも本日は大久保利通の命日です。関係者の皆様、京都新聞 阿部記者に感謝です。
大久保利通銅像.jpg
(大久保利通銅像:鹿児島市)
京都新聞20190514朝刊社会1面 有待庵.JPG
(京都新聞 朝刊 令和元(2019)年5月14日)阿部様、有難うございました。
■鹿児島放送KKBニュースでも報道頂けました。「大久保利通没後141年幕末の密談を知る茶室を確認」
以下より視聴可能です(動画内の筆者は昨年2018年12月7日の記者会見の画像です)中西様、有難うございました。

■今回の経緯
はじめに、大久保利通旧邸は、京都市歴史資料館運用「いしぶみデータベース」にも掲載されており、当地には、昭和2年7月に京都市教育会という団体による石碑「大久保利通旧邸」が建ち、すでに顕彰されている確かな史跡地です。
大久保利通旧邸 石碑1.jpg       大久保利通旧邸 石碑 解体中.jpg
          (現 石碑は施主様の御厚意で今回撤去されないとのことでした)
■御花畑から移築したとされる茶室「有待庵」
明治国家建設の功労者 大久保利通は、慶應2年正月から同4年(明治元年)6月まで、上京区石薬師通寺町東入南側に居住していました。明治維新へと大きく牽引した薩摩藩の二本松薩摩藩邸(現 同志社大学今出川校地の一部)近く、禁裏(御所)東に位置する大久保利通旧邸は「御花畑」や西郷隆盛塔の段寓居と同様に、居宅であり重要な政治拠点でした。
筆者にとっては、小松帯刀寓居であった「御花畑」屋敷(近衛家別邸)より移築したとされる茶室(後に「有待庵」と命名される)を備えた大久保旧邸は研究対象でもあり、訪問や近隣での聞き取り等かねてから調査を進めていました。
■長らく確認されていなかった「有待庵」
しかし、大久保旧邸は大久保家所有から人手にわたった後、外側から確認できない敷地奥に位置した「有待庵」は、長らく、一般の目には触れられない状況で、その実態を確認することは難しい状況でした。
有待庵は現存しているのか? それとも、すでに消失しているのか?
確かめる術がありませんでした。
■京都府行政文書には茶室の記載がなかった
薩長同盟締結地である「御花畑」御屋敷(近衛家別邸・小松帯刀京都寓居)については、先行研究を受けて、2016年5月初旬、京都府行政文書の発見により、所有者 近衛家が、京都市上京区「森之木町」で、京都府に届け出た、約1800坪の広大な邸宅地であったことが判明しました。添えられていた図には、屋敷内の家屋等が坪数と共に明記されていましたが、茶室の記述はなく、このことは、明治4年の届出時には茶室がなかったことを意味し、大久保利通旧邸に移築されたエピソードを裏付けると考えていました。
IMG_1862.JPGIMG_5173-40fa2.JPG
(明治4年作成「貫属士族受領並拝借買得邸一件」(京都府土木課文書)
■絵図に描かれた茶室2棟
鹿児島県歴史資料センター黎明館 所蔵の 「御花畑絵図」には、茶室が2棟が描かれています。筆者は黎明館の許可を得て、データ取得や実見に赴き、模式図を作成しました。(協力:新出高久氏)
IMG_5182.PNGIMG_5183.PNG
■古写真により周知されていた有待庵
有待庵の古写真は、国立歴史民族博物館 企画展示「大久保利通とその時代」(2015年10月6日(火)〜12月6日(日))にも展示されました。
大久保利通とその時代.jpg
他にも、大久保利武講演録『有待庵を繞る維新史談ー大久保侯爵講演』(同志社講演集1944年)などにも有待庵の写真が所収されています。利武氏は大久保利通の三男にあたります。
■拙稿での推定
そして、図録所収の大正期の有待庵の写真から起こした図面等と、御花畑にあった茶室とは形態等が異なることを把握し、
拙稿「薩長同盟締結地「御花畑」発見」(、西郷南洲顕彰会刊『敬天愛人』第34号2016年9月24日)本文で以下のように記しました。
「囲炉裏をもったタイプの異なる茶室が邸の西北と御花畑の東端に描かれている。この邸の茶室がのちに京内石薬師町の大久保利通の私邸に移され、密談に使われたと大久保の三男(利武)が講演録(註12:大久保利武『有待庵を繞る維新史談ー大久保侯爵講演』同志社講演集1944年)で語っているが、大正期の写真を見る限りどちらとも完全には一致しない。また、移築時期もはっきりしていないので検討を要するだろう。」
敬天愛人 西郷南洲顕彰会.jpg

■現存していた「有待庵」
2019年5月9日(木)15:53、たまたま大久保利通旧邸 近くを通りかかった筆者は、住宅が解体されるとわかりました。とっさに、茶室「有待庵」のことが思い浮かび、工事関係者さんに声をかけたところ、
解体初日でまだ重機も入っていなかったことから、見せて頂けることになり、邸宅奥へと進みました。
敷地奥の南端の庭に、単体の茶室がありました。
茶室入口には廃棄材などが積まれ、中には入れない状況でしたが、茶室左手(東側)の小窓から手を差し入れ、携帯で室内を撮った写真から、把握していた大正期の有待庵の写真と間取りが一致することが判明しました。
一方で、拙稿で明記したように、御花畑にあった茶室の間取りも熟知していたので、目の前の有待庵とは完全に一致しないことも確認しました。

すなわち、御花畑にあった茶室は慶応2年春以降の移築時に解体され、大久保旧邸の奥庭の敷地に合わせて形態を変えて仕立てられたと考えました。部材等はそのまま活用されたので、譲り受けたことを広義には移築と認識されたと考えます

その茶室は「有待庵」と命名され、大久保家に伝わっていた大正、昭和時代の「有待庵」の古写真から把握できた間取りと、今回、確認でいた茶室は、室内の間取りが一致することから、大久保利通の茶室「有待庵」そのものと判明したのです。

■大久保利武の講演録『有待庵を繞る維新史談』(昭和19年同志社刊)より※講演は昭和17年催行。
大久保利通の三男 利武は、父 利通が西郷隆盛や木戸孝允、岩倉具視らとの密談の様子を以下のように語られています。
「この旧宅に利通が引き移りましてから来客の出入りも多く、幕府からも終始眼を附けられ、時々怪しき者も徘徊し、戸外より立ち聞きする者もあり、警戒の必要もあるので、小松帯刀が京都を去り帰藩することになつた際、小松に請ふてあの茶室を貰い受け、人目に立たぬこの旧宅の奥に移し設けたもので、已に薩長連合の密談の際に用いられたものが、所変わり手其後も亦この旧宅に於いて、幾多重要なる国事の密談用に供せられたのは実に珍しく、貴重な使命を勤めた史蹟とも云うべきであると思ふのであります」(『維新史談』28頁)
講演録は、利武の息子 利謙氏(歴史学者)が引き継ぐかたちでは編まれ『維新史談』は完成しました。
利武が旧邸を手にいれるまでの間、旧邸は改築されていない様子が講演録にもあり、利通が居住していた当時のままで間口の狭い京町屋の敷地奥、面積の狭い奥庭に位置した有待庵もそのまま残っていたと考えます。有待庵の東隣には当時から土蔵があり、現存確認時、土蔵は外壁で補強されていたものの内部はかなり古い土蔵でした。そのことからも、有待庵の位置は当時から変わらないと現時点で推定しています。
何より、利武自身が、この茶室は父 利通の茶室である。と語り、歴史学者の利謙もそれを引き継いでいます。
利武が父の茶室を全面的に解体し、全く別の形の茶室に作り変えるでしょうか? 有待庵は大久保利通の茶室である。と利武が仰ってるので間違いないと考えます。
もちろん、昭和時期に母屋と切断され単体となった有待庵の屋根や壁に手が入っていることは現存確認した時点で把握しています。有待庵が間取りはそのままで修理を重ねられていることも、京都新聞寄稿で紹介しています。

※ 現在、大久保旧邸は重機の入った解体工事中で安全性の為にも私有地であることからも絶対に中へは入ることは許されていません。
有待庵 室内撮影 20190509 .JPG
(筆者撮影:2019年5月9日15:55)
大久保家より 有待庵.jpg
(大久保家 現ご当主 大久保利泰 氏 ご提供)
大久保利通の茶室「有待庵」は現存していました。
大変嬉しい発見でした。しかし、すでに解体工事に入っている段階です。
今朝の京都新聞の記事は、誰も辛い立場にならないよう配慮下さり、現状を報告いただけました。
鹿児島放送も同様です。
ご尽力下さっている方のおかげもあり、京都市文化財保護課 担当者さんも、視察に来て頂けることとなりました。心から感謝です。
これからも、関係者の皆様に敬意をはらい、最善を探っていければと願っています。
そんな中、解体を機に、大久保利通ゆかりの地へ、小さな遺物をつないでいける話が進んでいます。(茶室ではありません)
所有者の御厚意に感謝致します。
(後日、修正あり)

最後まで読んでくださり、有難うございました。原田良子拝
posted by 原田良子 at 12:41| 日記