2022年09月08日

有待庵の来歴に関する史料について(公開の京都大学貴重資料デジタルアーカイブより)

ひとつ前のブログ記事で書きました、大久保利武が旧邸入手に成功したことを兄牧野伸顕に知らせた手紙の内容をさらに裏付ける写真資料(請求記号:尊//58319322が京都大学附属図書館の貴重資料デジタルアーカイブで維新特別文庫資料中の写真類として公開されている。この資料はかつて尊攘堂所蔵の資料で、維新関係資料を中心に図書館に寄贈されたものである。

貴重書アーカイブの茶室.jpgアーカイブ319コマは旧邸茶室で、321コマは旧邸玄関の写真です。裏書きにいずれも大久保利和(大久保利通長男)が寄贈となっており寺島正之が現住者とあるものです。旧土地台帳で確認できる前の持ち主は寺島なので一致します。来歴については、こちらのブログだけでなく、その後の知見も合わせて刊行の拙稿でもまとめました。

つまり、この写真は大正3年に大久保家が買いとる以前に撮られた写真ということになります。 

319コマの旧邸茶室は北側から撮影されていて、修復前の様子の一端がわかります。荒れた様子で奥にうつる障子窓などは立てかけられている状態であるが、修復後も基本的な構造は変化ないことが明確にわかる写真です。 

まず、同一とおもわれるものは、A杉皮葺の屋根、B奥に立てかけてある縦に10段、横に3ないし4列の組子をもつ障子戸、C母屋からの取り付き廊下の形状一致、D同じ形状の下地窓、E踏み石(これは大久保家所蔵写真で確認)です、 

明らかに改変されているところは手前の縁台の撤去、下地窓の向かって右横の目隠しが板材から竹材に変わっている(大久保家写真で確認)点です。また、桧皮葺の屋根の上に木柵および板製の目隠しが据え付けられているのがわかります。二階があるように見えるという意見もあるかと思いますが、杉皮葺の屋根の途中から立ち上がっているので、恒久的なものではなく、仮設的な構造物だと思われます。大久保家所蔵の写真をみると杉皮葺の形状も前後でよく一致しています。

さらに、部屋の中向かって左手には屛風が立て回してあり、その先は見えません。また、障子戸は立てかけられた状態なので、南側に設けられた板敷きもよく確認できませんが、すぐ左の柱よりは奥に障子は倒れ込んでいるので、その下に板敷きがあるのでしょう。

 ■現茶室は基本的には大久保利通時代からのもの

 一つ前のブログで紹介し、既に活字化済みではありますが、今年2022年7月5日京都新聞夕刊一面で報道頂けた大久保利通三男利武から次男牧野伸顕宛の手紙には以下のようにあります。 

「本月中には現住者立退クベク、其上多少手ヲ入レ、成ル可ク、御住居当時ノ旧形、其侭ニ保存為到度、存居候、幸ニ、手ヲ入レナハ、旧時ニ復スルコト相叶候事、ト存候。十年ノ望ニ逢候御勇御同慶難有候。湯河原取上方へ両度呈書致仕候」 

まさに「旧時に復することが叶う」状態であったことがよくわかります。前述の写真の寄贈主は長男の大久保利和ですから、彼もまた利武同様に旧宅買い戻しに動き、それを切望していました。利武は湯河原に静養していた兄の利和宛に2度もこのことを知らせる手紙を書いたとあります。 

 以上、これらの写真は利武が手紙に書いた旧宅の様子を直接伝えるもので、現存していた茶室と間取りなどは変わっていないことを示していて、現茶室が基本的には大久保利通時代からのものであることがより確実になりました。

大久保家茶室比較Ver2ブログ用.jpg

<付記>

 前述と前ブログ記事で取り上げたのは積極的な資料でしたが、一方で驚いた資料に出くわすことがあります。何年も前に確認していましたがいまだ公表していなかったことを良い機会なので紹介しておきます。 

■大久保利通の茶室「有待庵」と間違えられた頼山陽「山紫水明処」 

当該の資料は京都大学附属図書館の「維新特別資料文庫」中に所蔵されている『京都維新史跡写真帖』(請求記号:維/キ14)と題された写真集です。手書きのキャプションが添えられた48枚におよぶ写真集で、奥付もなく、出版されたものではないようです。同じ趣旨の写真集が昭和3年に京都市教育会から『京都維新史蹟』というタイトルで序文や解説までつけて刊行されています。両者は同じアングルから撮った別写真、あるいは同一の写真も含まれているので、同じ写真群から同時期に編集され、一方は私家本として、一方は公刊されたものと思われます。私が最初にみたのは西村吉右衛門氏所蔵の立派に装丁された京都市教育会の『京都維新史蹟』でした。

ところが、その後、別のところで、『京都維新史蹟』の中の頼山陽「山紫水明処」の写真が大久保旧邸茶室として紹介されているのに出くわして驚きました。

その出典が先にのべたように京都大学貴重資料デジタルアーカイで公開されていることを知りました。

さっそくアクセスしてみると、頼山陽「山紫水明処」の写真の右横に確かに手書きで「大久保利通石薬師旧邸内茶室」と記載がありました。ところが同じ写真帳の別ページに大久保利通旧邸茶室の写真が掲載されています。これは刊本の『京都維新史蹟』と同アングルの写真でした。

 その後の調査で、こちらの写真は間違いなく「山紫水明処」であることを確認した次第です。『京都維新史蹟』には写真に重ねた薄紙に「山紫水明処」と明記されています。

image-3503e.jpegimage-50316.jpeg

京都維新史蹟表紙.jpg

(上記3点は西村吉右衛門氏所蔵の『京都維新史蹟』)

結論です。京都大学貴重資料デジタルアーカイブ「維新特別資料文庫」の『京都維新史跡写真帖』の7ページ目の茶室写真の手書き記載は誤りで、ただしくは頼山陽「山紫水明処」です。また、誤りに所属先である京都大学附属図書館は関係なく、写真を枠のまま(記載があるまま)公開されているだけです。

京都大学貴重資料デジタルアーカイブは誰でも見ることができます。一方、刊本の『京都維新史蹟』の方も国会図書館デジタルコレクションでアーカイブされていますが、ついこの間までは図書館で手続きをしないと閲覧することができませんでした。

同じアーカイブされている資料もアクセスの容易な方が伝播しやすい性質をもっています。拡散されやすい資料に誤りが合った場合、誤りが一人歩きしていくことも考えられます。ネット社会で簡単にアクセス容易な情報は広がっていきます。こういったことは歴史資料のデジタルアーカイブをすすめていく重要な課題ではないかと思います。

尚、誤解のないように重ねますが、今回の間違いに所蔵先の京都大学附属図書館は関係ありません。アーカイブ公開は、コロナ禍でも研究において寄与している事を身をもって実感する立場からも、京都大学附属図書館には改めて感謝申し上げます。

 

原田良子

posted by 原田良子 at 16:22| 日記

2022年06月12日

大久保利通旧邸茶室「有待庵」の来歴に関する史料について

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追記:2022年7月5日(火)京都新聞 夕刊一面に掲載頂けた報道についての詳細と補足を以下に。
改めて、関係者皆様に感謝致します。
原田良子
 
<発見と保存>
 2019年5月9日に「大久保利通旧邸」石碑(京都市教育会 大正2年)がある敷地建物が取り壊し中であることに気づいた筆者はその場で茶室が残されていることを確認した。
 京都市はただちに調査に入り、有識者からの提言もあり幕末史に関わる重要遺構「大久保利通の茶室」として保護し、移築保存することを決定した。現在、部材等は京都市のもとに保管されている。
 この旧邸は大久保家の記録によれば慶応2年春から4年6月まで利通が居住し、その後、人手にわたっていたが、三男である大久保利武が大阪府知事時代の大正3年に買い戻したものである。
 この経緯は昭和17年に利武が「有待庵」と名付けられたこの茶室で行った講演録『有待庵を繞る維新史談』(同志社、昭和19年)に詳しい。講演の中で、この茶室は政治的密談に使われたことを紹介している。また、入手の経緯も述べていて、建物は大工の見立てでは100年以上前の普請であると紹介し、「昔のままに維持されて自分の所有に帰した」ことを家にとっても幸せなことであったと回想している。
 また、講演録は利武の没後刊行された。息子であり日本近代史学者であった大久保利謙が講演録に添えた跋文には「入手当時は既に荒廃しておりましたが、その修繕にも勉めて旧態の保存に心懸け」とある。
<紹介史料>
大久保利武書翰大久保利武書翰 今回、国立国会図書館憲政資料室所蔵の「牧野伸顕関係文書」の書翰の部413-19に大久保利武が次兄の牧野伸顕にあてた私信があり、その中で旧邸購入について言及されている。先述の講演録にあった入手経緯を具体的に物語る史料である。日付は3月3日付けで、文中に「一両日中ニ手ツヅキ相済可申」とある。旧土地台帳で確認できる所有権移転の日付は大正3年3月4日なので、手紙の文言通りに登記が完了している。つづいて、
「多少手ヲ入レ、成ル可ク、御住居当時ノ旧形、其侭ニ保存為到度、存居候、幸ニ、手ヲ入レナハ、旧時ニ復スルコト相叶候事、ト存候」
(多少手を入れてなるべく御住居を当時の旧形のままに保存したいと思っています。幸い手を入れれば旧時の面影に復することが叶うと思います。)
とある。
 利武本人が講演で述べた「昔のままに維持されていた」という文言や利謙の跋文にある「旧態の保存」に心がけたという記述を完全に裏付ける史料である。
 なお、この史料を引用した研究として松田好史「『歴史家』大久保利武」(『大久保家秘蔵写真―大久保利通とその一族―』国書刊行会 2013年)がある。歴史研究者としての利武の業績をまとめたものである。上記で紹介した部分は、松田氏が翻刻引用された部分の直後にあたる。
 松田氏の引用部分は、親戚に金策をしてまでも父の旧宅を史跡として残そうとする利武の姿勢を評価するために引用されたものであり、書翰全文は紹介されておらず、原文の画像も掲載されていない。
 茶室の現存が確認され、京都市が保全するされるにあたっては、松田氏が引用された部分の直後にあたる今回紹介した部分が重要となる。
 手紙は、かつての建物を知っている兄弟間のやり取りで、その中で「旧形」を「そのまま」に保存することを目的に修繕をおこなうということが綴られている。兄弟間のやりとりで嘘や誇張を述べる必要は全くない。
 ここから、大久保家に残る修繕直後の茶室写真の形状は、利通居住当時の茶室と考えて問題がないことがわかる。
 さらに、発見された現存茶室は間取りや吊り床、建具の形状などからみて写真当時の旧状を保っていることがわかる。
 私見ではあるが、現在保管の部材をもって移築再現する場合は、この大久保家に残る写真に限りなく近づける形でなされることが、大久保利通旧宅茶室としてふさわしいように思う。
 なお、現存茶室は大久保利通旧宅茶室として保存されたものである。近衞家別邸「御花畑」の茶室を譲り請けたものであるということからの保存ではない。この大久保家の家伝については、さらなる検討が必要である
<まとめ>
  • 大正3年3月に大久保利武は、父利通の旧居を当時の姿を残したまま入手した。
  • 現茶室は大久保家に残された写真から、利武が入手した当時の形状を残していることは明らかである。
  • したがって、今回の史料は現茶室建物が基本的には利通居住当時に存在していた茶室を受け継ぐものであることを示す史料である。
  • 今回、紹介した史料については、2022年1月に原本写真版を所蔵先より取り寄せた。管見の限り、現時点で画像・全文翻刻とも公刊はされていない。
  • 京都市が「大久保利通旧邸の茶室「有待庵」」と判断し、保全をされたことに改めて感謝したい。
(謝辞)当書簡の取り寄せや解読で国際日本文化研究センターの磯田道史氏のご協力を得た。感謝の意を表したい。
※書簡掲載については国立国会図書館に許可済みである。
posted by 原田良子 at 10:32| 日記

2021年09月28日

”五代友厚が大久保利通に馬車手配”緊密な関係示す書簡 について

 2021年9月28日(火)NHK鹿児島放送局の報道ニュース ”五代友厚が大久保利通に馬車手配”緊密な関係示す書簡発見」が放映されました。筆者はその中で五代友厚宛、大久保利通書簡を紹介させて頂いた。

大久保利通 五代友厚.jpeg

大久保利通、五代友厚肖像(国立国会図書館蔵)

 大久保利通を語る上で馬車にまつわるエピソードは幾つか知られてはいたが、大久保が馬車を入手するきっかけが、五代友厚によって用意されたことがわかる書簡がある。

以前、それをはじめて読んだ時は筆者は新鮮な驚きをもち、当時、さっそく執筆中の拙稿の中にとりいれ紹介をした。その経緯と今回の報道について若干の補足を報告する。

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(原田良子「大久保利通の茶室「有待庵」の発見と来歴について」(『地名探求 No.19』京都地名研究会刊))

 

 

 1.はじめに、筆者と大久保利通

 令和に変わってすぐの2019年5月9日、筆者は大久保利通旧邸跡(京都市上京区)の住宅解体現場で茶室「有待庵」の現存を確認した。利通の茶室が残っていたことは同月14日に京都新聞で報道され反響をよんだ。それは偶然にも利通の命日にあたっていた。

 その後、全国報道へと広がり市民からも保護の声があがり、所有者も京都市へ寄附を希望されたことから市有化の道が開けた。消滅寸前の茶室は所有者のご厚意と京都市の英断により発見から1ヶ月と経たないうちに保護されたのである。将来、岩倉具視幽棲旧宅(京都市左京区)への移築が予定され、一般公開が待たれている。

 筆者はかねてから薩長同盟締結地「御花畑」(近衛家別邸、小松帯刀京都寓居)研究の一環として有待庵を調査してきた。一昨年、茶室移築の可能性について論じ、またあわせて大久保利通旧邸の来歴について管見の史料を用い報告を公表したが、その中に今回とりあげられた書簡も紹介した。

 

この時は原典に当たった上での紹介にとどめていたが、今回、新たな視点での分析が加えられた。

 

 2.五代友厚宛、大久保利通書簡

 こ書簡は五代ご子孫からの大阪商工会議所に寄贈され、現在は大阪企業家ミュージアムに保管されている。

 それはすでに『五代友厚関係文書目録』で整理されている書簡であるが、管見では本書簡の研究をされている書籍や論文はなく、原文が掲載されている出版物も見当たらないことから、

 実際の書簡を精査したところ、『五代友厚伝記資料 一 』(大阪商工会議所、昭和48年)の翻刻には脱字等があることを確認した。

 以下、本書簡の翻刻を掲げる。

 

<翻刻>

 赤字の部分が挿入、訂正である。今回の報道に関わる知見に下線を施した。

 

貴墨拝読、しかれば少々御不快由、時分柄、折角御入念、御保護専(×簡)要奉祈候。扨、被懸御芳意、馬車馬壱疋、車御牽かせ被下、別て難有。馬は乗試の上、宜ク候ハゞ、相求申度、馬車ハ当借いたし候様可仕候。先日来、別テ不自由、人力車ニて奔走いたし居候処、誠ニ大幸の至、不浅御礼申上候。小子も、鳥渡、参上いたし度存候得共、何やかやにて、究屈を究め申候。余り遊楽いたし候報ヒが参候半、御一答ニて、余は期面上、御迄。早々頓首

九月廿八日 甲東

松陰老台

 

 

<現代語訳>

 今回の報道に関わる箇所を現代語訳し、便宜上@〜Cの番号を付した。

 

さて、あなた様(五代友厚)のご親切によりご用意いただいた

 @馬車馬一匹、車を牽かせたところ、とても有難く、

 A馬は試乗した上で、よければ手に入れたいと思います。

 B馬車は当借するようにいたします。

 C先日からとても不自由で、人力車であちこち走り駆け回っていましたところ、誠に大幸の至りで、浅からず深く御礼申し上げます。

 

 上記から、馬(馬車馬)は一匹であり、大久保はそれを試乗した上で手に入れたい(@A)とし、

 一方、馬車については当分の間、借りたい(B)と馬と馬車を区別して伝えている。

それまで大久保は人力車を使用していたことに触れている(C)

 つまり、五代の用意で大久保の乗り物は人力車から馬車へと変わったことが伺える。

 

 3.大久保利通と馬車

 書簡の日付は9月28日であるが年代が記されていない。現時点では書面の内容から直接に年代を確定できないが、大久保利通と馬車については幾つかエピソードが残っているのでおおよその年代の推察ができる。

 大久保が馬車に乗っていたことを確かめられる年代が古い資料として中江兆民による述懐がある。

明治4年、中江は大久保の馬車を待ち伏せし直談判に成功しているのである((勝田孫弥『甲東逸話』富山房昭和3年)。同年、中江はフランス留学を果たした。このことから当書簡は明治4年以前の明治初期頃だと考えられる。

 

 他のエピソードとしては、内務卿となった明治8年頃には馬車で出勤していることが知られる。そして、利通の三男 大久保利武は、当時、本邸(東京麹町三年町)から高輪の別邸(東京芝二本榎にあり「大久保利通日記」では明治6年11月16日に別邸としての記載が初出。佐々木克『志士と官僚』)まで馬車で移動し、この別邸は馬車道も作られていたことを明かしている。(ここでは詳細を割愛する)

何よりも、大久保が暗殺された時に馬車に乗っていたこと、その馬車が現存(倉敷市)していることからも大久保を語る上で忘れられない。

 

 しかし、大久保にとって初めての馬車が五代友厚によって用意されたことは筆者自身も本書簡により初めて知った。

 尚、大久保が暗殺された時の馬車が五代によってこのときに用意された馬車である可能性はあるが確定はできない。

 先行研究によると、暗殺時の馬車は2人乗りのイギリス型クーペで、当時、生き延びた馬丁の芋松(小高芳吉)の証言「大久保利通遭難地調査書」(宮内庁書稜部蔵)から、大久保は馬車を2台所有していたことが判明している。(遠矢浩規『利通暗殺』行人社1986年、横田庄一郎『大久保利通の肖像』朔北社2012年)

 五代が用意し大久保が当借したいと願った馬車はのちに大久保が買い取ったり、そのまま五代が贈った可能性もあるが、現時点ではその馬車が暗殺された時の馬車であると裏付ける資料がなく判断はできない。

 

 4.五代友厚と馬車

 五代友厚は明治15年につくられた東京馬車鉄道の筆頭株主であることは知られているが、それ以前、明治初期に馬や馬車を扱っていること、大久保利通に限らず同郷で明治期に2度内閣総理大臣をつとめた松方正義にも馬車を用意していたことが今回の書簡の研究において判明している。

当時から欧米、外交をわかっている五代にとって、馬車は外交儀礼でもあり対外的な関係においても大事だと早くから理解していたのであろう。

 明治7年、大久保が全権大使として清国へ急遽派遣されることとなった時、横浜港へ行くために五代に馬車を用意して欲しいと手紙を送っている。(五代の返答もあり)明治7年には既に馬車を保有していたであろう大久保であるが外国へ行く時の大荷物を積めるような馬車となると改めて五代にお願いしていると理解でき、このことから五代は様々な形態の馬車を所有し適宜利用していたと考えられる。

 

 5.おわりに 〜空間としての馬車〜

 大久保利通の茶室「有待庵」は三方が障子であり、機密性を保ちながら外の動きを察知できる機能性を備えていたといえ、明治の世になってからも政府幹部でありつづけた大久保利通にとって馬車はたんなる乗り物ではなく機密性があり書斎も兼ね備えていた空間だったと考える。

今回の書簡について歴史学者 原口泉教授によるコメントも紹介する。

「二人の非常に強い絆を示す文書だ。当時の馬車は速度の速い最新鋭の交通手段で、維新政府における人間関係の形成過程もわかる」

 

 以上、目録にある書簡でありながら、今まで深められずにいた資料と知見に光を当てていただいたNHK鹿児島放送局、原文の撮影に応じていただいた大阪企業家ミュージアム・大阪商工会議所、そして多くの大久保利通、五代友厚の先行研究者に感謝申し上げます。

 尚、今回の報道に先立った拙稿では、大久保家に残る貴重な史料をご厚意からご提供下さった現ご当主 大久保利泰氏・洋子氏、平井俊行氏、そして新史料をご提供下さった磯田道史氏に改めて感謝を申し上げます。

 

2021年9月28日 原田良子

 

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posted by 原田良子 at 12:35| 日記