2021年9月28日(火)NHK鹿児島放送局の報道ニュース「 ”五代友厚が大久保利通に馬車手配”緊密な関係示す書簡発見」が放映されました。筆者はその中で五代友厚宛、大久保利通書簡を紹介させて頂いた。
大久保利通、五代友厚肖像(国立国会図書館蔵)
大久保利通を語る上で馬車にまつわるエピソードは幾つか知られてはいたが、大久保が馬車を入手するきっかけが、五代友厚によって用意されたことがわかる書簡がある。
以前、それをはじめて読んだ時は筆者は新鮮な驚きをもち、当時、さっそく執筆中の拙稿の中にとりいれ紹介をした。その経緯と今回の報道について若干の補足を報告する。
(原田良子「大久保利通の茶室「有待庵」の発見と来歴について」(『地名探求 No.19』京都地名研究会刊))
1.はじめに、筆者と大久保利通
令和に変わってすぐの2019年5月9日、筆者は大久保利通旧邸跡(京都市上京区)の住宅解体現場で茶室「有待庵」の現存を確認した。利通の茶室が残っていたことは同月14日に京都新聞で報道され反響をよんだ。それは偶然にも利通の命日にあたっていた。
その後、全国報道へと広がり市民からも保護の声があがり、所有者も京都市へ寄附を希望されたことから市有化の道が開けた。消滅寸前の茶室は所有者のご厚意と京都市の英断により発見から1ヶ月と経たないうちに保護されたのである。将来、岩倉具視幽棲旧宅(京都市左京区)への移築が予定され、一般公開が待たれている。
筆者はかねてから薩長同盟締結地「御花畑」(近衛家別邸、小松帯刀京都寓居)研究の一環として有待庵を調査してきた。一昨年、茶室移築の可能性について論じ、またあわせて大久保利通旧邸の来歴について管見の史料を用いた報告を公表したが、その中に今回とりあげられた書簡も紹介した。
この時は原典に当たった上での紹介にとどめていたが、今回、新たな視点での分析が加えられた。
2.五代友厚宛、大久保利通書簡
この書簡は五代ご子孫からの大阪商工会議所に寄贈され、現在は大阪企業家ミュージアムに保管されている。
それはすでに『五代友厚関係文書目録』で整理されている書簡であるが、管見では本書簡の研究をされている書籍や論文はなく、原文が掲載されている出版物も見当たらないことから、
実際の書簡を精査したところ、『五代友厚伝記資料 一 』(大阪商工会議所、昭和48年)の翻刻には脱字等があることを確認した。
以下、本書簡の翻刻を掲げる。
<翻刻>
赤字の部分が挿入、訂正である。今回の報道に関わる知見に下線を施した。
貴墨拝読、しかれば少々御不快之由、時分柄、折角御入念、御保護専(×簡)要奉祈候。扨、被懸御芳意、馬車馬壱疋、車御牽かせ被下、別て難有。馬は乗試の上、宜ク候ハゞ、相求申度、馬車ハ当借いたし候様可仕候。先日来、別テ不自由、人力車ニて奔走いたし居候処、誠ニ大幸の至、不浅御礼申上候。小子も、鳥渡、参上いたし度存候得共、何やかやにて、究屈を究め申候。余りの遊楽いたし候報ヒが参候半、御一答ニて、余は期面上、御禮迄。早々頓首
九月廿八日 甲東
松陰老台
<現代語訳>
今回の報道に関わる箇所を現代語訳し、便宜上@〜Cの番号を付した。
さて、あなた様(五代友厚)のご親切によりご用意いただいた
@馬車馬一匹、車を牽かせたところ、とても有難く、
A馬は試乗した上で、よければ手に入れたいと思います。
B馬車は当借するようにいたします。
C先日からとても不自由で、人力車であちこち走り駆け回っていましたところ、誠に大幸の至りで、浅からず深く御礼申し上げます。
上記から、馬(馬車馬)は一匹であり、大久保はそれを試乗した上で手に入れたい(@A)とし、
一方、馬車については当分の間、借りたい(B)と馬と馬車を区別して伝えている。
それまで大久保は人力車を使用していたことに触れている(C)
つまり、五代の用意で大久保の乗り物は人力車から馬車へと変わったことが伺える。
3.大久保利通と馬車
書簡の日付は9月28日であるが年代が記されていない。現時点では書面の内容から直接に年代を確定できないが、大久保利通と馬車については幾つかエピソードが残っているのでおおよその年代の推察ができる。
大久保が馬車に乗っていたことを確かめられる年代が古い資料として中江兆民による述懐がある。
明治4年、中江は大久保の馬車を待ち伏せし直談判に成功しているのである((勝田孫弥『甲東逸話』富山房昭和3年)。同年、中江はフランス留学を果たした。このことから当書簡は明治4年以前の明治初期頃だと考えられる。
他のエピソードとしては、内務卿となった明治8年頃には馬車で出勤していることが知られる。そして、利通の三男 大久保利武は、当時、本邸(東京麹町三年町)から高輪の別邸(東京芝二本榎にあり「大久保利通日記」では明治6年11月16日に別邸としての記載が初出。佐々木克『志士と官僚』)まで馬車で移動し、この別邸は馬車道も作られていたことを明かしている。(ここでは詳細を割愛する)
何よりも、大久保が暗殺された時に馬車に乗っていたこと、その馬車が現存(倉敷市)していることからも大久保を語る上で忘れられない。
しかし、大久保にとって初めての馬車が五代友厚によって用意されたことは筆者自身も本書簡により初めて知った。
尚、大久保が暗殺された時の馬車が五代によってこのときに用意された馬車である可能性はあるが確定はできない。
先行研究によると、暗殺時の馬車は2人乗りのイギリス型クーペで、当時、生き延びた馬丁の芋松(小高芳吉)の証言「大久保利通遭難地調査書」(宮内庁書稜部蔵)から、大久保は馬車を2台所有していたことが判明している。(遠矢浩規『利通暗殺』行人社1986年、横田庄一郎『大久保利通の肖像』朔北社2012年)
五代が用意し大久保が当借したいと願った馬車はのちに大久保が買い取ったり、そのまま五代が贈った可能性もあるが、現時点ではその馬車が暗殺された時の馬車であると裏付ける資料がなく判断はできない。
4.五代友厚と馬車
五代友厚は明治15年につくられた東京馬車鉄道の筆頭株主であることは知られているが、それ以前、明治初期に馬や馬車を扱っていること、大久保利通に限らず同郷で明治期に2度内閣総理大臣をつとめた松方正義にも馬車を用意していたことが今回の書簡の研究において判明している。
当時から欧米、外交をわかっている五代にとって、馬車は外交儀礼でもあり対外的な関係においても大事だと早くから理解していたのであろう。
明治7年、大久保が全権大使として清国へ急遽派遣されることとなった時、横浜港へ行くために五代に馬車を用意して欲しいと手紙を送っている。(五代の返答もあり)明治7年には既に馬車を保有していたであろう大久保であるが外国へ行く時の大荷物を積めるような馬車となると改めて五代にお願いしていると理解でき、このことから五代は様々な形態の馬車を所有し適宜利用していたと考えられる。
5.おわりに 〜空間としての馬車〜
大久保利通の茶室「有待庵」は三方が障子であり、機密性を保ちながら外の動きを察知できる機能性を備えていたといえ、明治の世になってからも政府幹部でありつづけた大久保利通にとって馬車はたんなる乗り物ではなく機密性があり書斎も兼ね備えていた空間だったと考える。
今回の書簡について歴史学者 原口泉教授によるコメントも紹介する。
「二人の非常に強い絆を示す文書だ。当時の馬車は速度の速い最新鋭の交通手段で、維新政府における人間関係の形成過程もわかる」
以上、目録にある書簡でありながら、今まで深められずにいた資料と知見に光を当てていただいたNHK鹿児島放送局、原文の撮影に応じていただいた大阪企業家ミュージアム・大阪商工会議所、そして多くの大久保利通、五代友厚の先行研究者に感謝申し上げます。
尚、今回の報道に先立った拙稿では、大久保家に残る貴重な史料をご厚意からご提供下さった現ご当主 大久保利泰氏・洋子氏、平井俊行氏、そして新史料をご提供下さった磯田道史氏に改めて感謝を申し上げます。
2021年9月28日 原田良子