近衛家別邸「御花畑」研究の深化のために。及びコロナ禍に「おうち」で発見できた事例として既に活字化した内容ではありますが報告致します。
■はじめに
筆者は、2016年5月に京都府立総合資料館(現:京都府京都学・歴彩館)で近衛家別邸「御花畑」屋敷の位置と規模等を示す京都府行政文書を発見し、その後、鹿児島で初公開された御花畑絵図(黎明館蔵・玉里島津家史料)も用いて新史料から御花畑の正確な場所を論考をもって発表し(「薩長同盟締結の地『御花畑』発見」西郷南州顕彰会『敬天愛人』第34号2016年9月24日刊・6月受理)
その後も継続して研究を続け、様々な機会をいただけ報告しています。
先頃、同志社大学の佐野静代氏が「御花畑」屋敷について専論(「近衛家別邸「御花畑」の成立とその政治史上の役割 : 禁裏御用水・桂宮家・尾張藩・薩摩藩との関わりについて」『人文學』同志社大学 2020年)を公表されました。その中には尾張藩との関係などについて新史料の紹介もされ今後の研究にとってたいへん有意義な論考であり拙稿も取り上げて頂きました。
しかし、この論文の、ある論点と結論の論拠になっている「御花畑」の前身屋敷が江戸中期の桂宮「小山御屋敷」とされた点には誤認があり、筆者へも問合せがあることから、今後の研究のためにも早く報告した方がよいと忠告もいただきここに記します。
結論からいえば、小山御屋敷は御花畑の前身屋敷ではなく別の場所に存在しました。
■桂宮家「小山御屋敷」
佐野氏が「小山御屋敷」を「御花畑」の前身とされた論拠は、著名な建築史研究者である故 西和夫氏がご著書『近世の数寄空間ー洛中の屋敷、洛外の茶屋ー』(中央公論美術出版1988年)で、江戸中期の桂宮家(当時は京極宮と呼称)小山御屋敷の場所を「地下鉄『鞍馬口』あたりにある小山町にあった」と記述されていることでした。以下に抜粋します。
「小山御屋敷(註4)は小山町にあった。烏丸通りを北に上った地下鉄鞍馬口のあたりである。鞍馬口は京の七口のひとつ。このあたりは当時、京の町はずれといった感じの場所であった。」(『近世の数寄空間』4頁)
(注4)「小山御屋敷については『桂宮日記』によっておよその位置が判明するが、どのような建物があったかなど詳細は不明である。」
その後も継続して研究を続け、様々な機会をいただけ報告しています。
先頃、同志社大学の佐野静代氏が「御花畑」屋敷について専論(「近衛家別邸「御花畑」の成立とその政治史上の役割 : 禁裏御用水・桂宮家・尾張藩・薩摩藩との関わりについて」『人文學』同志社大学 2020年)を公表されました。その中には尾張藩との関係などについて新史料の紹介もされ今後の研究にとってたいへん有意義な論考であり拙稿も取り上げて頂きました。
しかし、この論文の、ある論点と結論の論拠になっている「御花畑」の前身屋敷が江戸中期の桂宮「小山御屋敷」とされた点には誤認があり、筆者へも問合せがあることから、今後の研究のためにも早く報告した方がよいと忠告もいただきここに記します。
結論からいえば、小山御屋敷は御花畑の前身屋敷ではなく別の場所に存在しました。
■桂宮家「小山御屋敷」
佐野氏が「小山御屋敷」を「御花畑」の前身とされた論拠は、著名な建築史研究者である故 西和夫氏がご著書『近世の数寄空間ー洛中の屋敷、洛外の茶屋ー』(中央公論美術出版1988年)で、江戸中期の桂宮家(当時は京極宮と呼称)小山御屋敷の場所を「地下鉄『鞍馬口』あたりにある小山町にあった」と記述されていることでした。以下に抜粋します。
「小山御屋敷(註4)は小山町にあった。烏丸通りを北に上った地下鉄鞍馬口のあたりである。鞍馬口は京の七口のひとつ。このあたりは当時、京の町はずれといった感じの場所であった。」(『近世の数寄空間』4頁)
(注4)「小山御屋敷については『桂宮日記』によっておよその位置が判明するが、どのような建物があったかなど詳細は不明である。」
このように西氏はその著書でも具体的な場所について言及はされていません。
佐野氏も、西氏と同様に、未翻刻の宮内庁書陵部所蔵『桂宮日記』を読まれた結果、やはり具体的な位置を特定する新たな記述を見いだされなかったようです。『桂宮日記』からは「蛍火」の観賞記事をあげられ、蛍の生息環境や「御花畑」邸内に流れていた御用水路との関連を論じられて前身屋敷であることの補強材料とされました。
筆者にとっては全く意表をつくご指摘で、もしそうであるなら大きな研究の前進と思い、確証を得るべく小山御屋敷について調べました。
■「京極殿別業」とある古地図、発見
西氏の著書は論文形式ではなく、また場所については記述が簡略だったので、当時西氏とともに研究されていた小沢朝江氏(現:東海大学教授)に「小山町」とされた根拠についてご教示を仰いだところ、桂宮家 今出川本邸(現 京都御苑内の北東)からの距離や、途中参詣した寺社の位置関係、及び「小山」という地名に着目して比定されたということをご教示いただきました。
そういうことならば、小山町から具体的な場所を範囲を広げて探すことも可能ではないかと考えました。小山町の北にはその町名のもととなる小山村がひろがっているからです。
筆者はこれまでの研究から幕末期の古地図に集中して渉猟していましたが、「小山御屋敷」に問題がひろがったので江戸時代前・中期の古地図にまでひろげて精査したところ、ずばり「京極殿別業」「京極殿別殿」との記載がある古地図を複数発見することができました。京極宮が小山御屋敷利用当時の桂宮家の宮号で、桂宮家は八条宮→常磐井宮→京極宮→桂宮と宮名が変遷しています。
■「京極殿別業」とある古地図、発見
西氏の著書は論文形式ではなく、また場所については記述が簡略だったので、当時西氏とともに研究されていた小沢朝江氏(現:東海大学教授)に「小山町」とされた根拠についてご教示を仰いだところ、桂宮家 今出川本邸(現 京都御苑内の北東)からの距離や、途中参詣した寺社の位置関係、及び「小山」という地名に着目して比定されたということをご教示いただきました。
そういうことならば、小山町から具体的な場所を範囲を広げて探すことも可能ではないかと考えました。小山町の北にはその町名のもととなる小山村がひろがっているからです。
筆者はこれまでの研究から幕末期の古地図に集中して渉猟していましたが、「小山御屋敷」に問題がひろがったので江戸時代前・中期の古地図にまでひろげて精査したところ、ずばり「京極殿別業」「京極殿別殿」との記載がある古地図を複数発見することができました。京極宮が小山御屋敷利用当時の桂宮家の宮号で、桂宮家は八条宮→常磐井宮→京極宮→桂宮と宮名が変遷しています。
それは国際日本文化研究センター(日文研)のデータベース内にある森幸安データベースにありました。寛延 3(1750)年に刊行された「京師内外地図 洛中 洛東 愛宕郡」「城池天府京師地図」(国立公文書館蔵)でした。なお、筆者の発見を受けた論文共著者 新出高久氏(←新出氏のブログもご参照下さい)は同データベース内をさらに渉猟され、同じ場所に「八条宮別殿」とある図を確認されました。
■小山御屋敷の正確な場所
その位置は「御花畑」の位置ではなく、小山町の西隣、室町頭以西、新町頭以東の「あたらし町」(後に長乗東町、西町)の北側に接する場所でした。この場所は西氏の論考にとっては想定の範囲内です。
結果的に「小山御屋敷」の「小山」は小山町ではなく小山村にちなむものでした。もっとも小山村住人の数は少なく、ほとんどの住人は小山町に隣接して居住をしていたようです。
その位置は「御花畑」の位置ではなく、小山町の西隣、室町頭以西、新町頭以東の「あたらし町」(後に長乗東町、西町)の北側に接する場所でした。この場所は西氏の論考にとっては想定の範囲内です。
結果的に「小山御屋敷」の「小山」は小山町ではなく小山村にちなむものでした。もっとも小山村住人の数は少なく、ほとんどの住人は小山町に隣接して居住をしていたようです。
(国立公文書館蔵 森幸安製作 寛延3年刊行 城池天府京師地図より一部加筆)
その後の調査で、宝暦7(1757)年には小山御屋敷があった場所の痕跡がまったくみてとることができない資料により、遅くともこのころまでには完全になくなっていることもわかりました。
■まとめ
以上、「御花畑」と「小山御屋敷」は全く別位置に存在し、御花畑の前身屋敷ではなく、また近衞家に拝領されたものでもないことが確認できました。(近衛家筆の京都府行政文書には買得地として届出られていることは2016年の拙稿で明記しています)
今回の発見については既に活字化済ですが、前述したように筆者への問合せがあることから簡単ではありますがブログでも公表させて頂きました。御花畑について今後も研究を深めていきたいです。
さいごに、小山御屋敷について貴重なご教示をいただいた東海大学 小沢朝江氏に記して感謝いたします。今回、場所が特定できたこと何よりです。とお言葉を頂きました。
西和夫氏のご著書 挿図の掲載については中央公論美術出版社より許可頂きました。
絵図発見後に森幸安について伊東宗裕氏よりご教示いただけ上杉和央氏の森幸安に関するご著書等も紹介くださいました。
原口泉氏、青山忠正氏にご見解をいただけました。有難うございました。
今回の考察のきっかけを提示下さった佐野静代氏、先行研究者にも改めて感謝致します。
西和夫氏のご著書 挿図の掲載については中央公論美術出版社より許可頂きました。
絵図発見後に森幸安について伊東宗裕氏よりご教示いただけ上杉和央氏の森幸安に関するご著書等も紹介くださいました。
原口泉氏、青山忠正氏にご見解をいただけました。有難うございました。
今回の考察のきっかけを提示下さった佐野静代氏、先行研究者にも改めて感謝致します。
西和夫『近世の数寄空間ー洛中の屋敷、洛外の茶屋ー』(中央公論美術出版1988年)
付記@「アーカイブの公開について」
コロナ禍で図書館等が閉館したことで研究活動は困難になっています。しかし、一方で建築工学系の論文アーカイブが無償公開されたり、近年進んできた絵図のオンライン公開など、今までは相当な時間が必要であった資料の探索や画像閲覧が容易にできる環境もまだまだ不十分とはいえ整備されつつあります。今回はそれらを最大限活用して「おうち」作業で特定できました。思えば、2016年5月、筆者は京都府立総合資料館(現 京都府京都学・歴彩館 )でそれまで不明であった薩長同盟締結地を公文書で特定できた背景にも資料の公開性抜きには語れません。このことからも、今後も公開性がさらに進むようにと願います。
付記A「まち歩き」
御花畑屋敷と小山御屋敷の位置関係について、まち歩きでも紹介しました。
京極宮がたどったであろう道順をたどり、幸神社や上御霊神社にも参拝し、あらためて「御花畑」と「小山御屋敷」の位置関係も参加者の皆様と一緒に確かめられました。
今はもう完全な市街地になっていて往時を偲ぶものはありませんが、小沢氏からご教示いただいたこの屋敷付近での野辺遊び、西氏が強調された送り火見物など、『桂宮日記』の記述をたよりに思いをはせることができました。
付記@「アーカイブの公開について」
コロナ禍で図書館等が閉館したことで研究活動は困難になっています。しかし、一方で建築工学系の論文アーカイブが無償公開されたり、近年進んできた絵図のオンライン公開など、今までは相当な時間が必要であった資料の探索や画像閲覧が容易にできる環境もまだまだ不十分とはいえ整備されつつあります。今回はそれらを最大限活用して「おうち」作業で特定できました。思えば、2016年5月、筆者は京都府立総合資料館(現 京都府京都学・歴彩館 )でそれまで不明であった薩長同盟締結地を公文書で特定できた背景にも資料の公開性抜きには語れません。このことからも、今後も公開性がさらに進むようにと願います。
付記A「まち歩き」
御花畑屋敷と小山御屋敷の位置関係について、まち歩きでも紹介しました。
京極宮がたどったであろう道順をたどり、幸神社や上御霊神社にも参拝し、あらためて「御花畑」と「小山御屋敷」の位置関係も参加者の皆様と一緒に確かめられました。
今はもう完全な市街地になっていて往時を偲ぶものはありませんが、小沢氏からご教示いただいたこの屋敷付近での野辺遊び、西氏が強調された送り火見物など、『桂宮日記』の記述をたよりに思いをはせることができました。
また、二条城の本丸の建物は京都御苑北東の旧桂宮邸(桂宮・石薬師邸から本邸への移築経緯は西和夫氏らの論文があります)から明治時代に移築されたものです。修理のため2007年以来見ることができなかったものが再来年には久しぶりに公開される予定のようです。先立って、今週末の7月19日(日)には筆者もガイドをさせて頂いている「まいまい京都」と京都市の共催の【ライブ配信】磯田先生と二条城へ!本邦初、禁断エリア徹底潜入オンラインツアーが開催され磯田道史先生もガイドをされます。
付記B「7月16日の送り火」
小山御屋敷が存在した時代、旧暦7月16日が大文字の送り火でした。時代は下がりますが御花畑屋敷でも当時、小松帯刀や西郷隆盛が送り火を鑑賞した記録がのこっています。
今年は葵祭 祇園祭の山鉾巡行等も中止となりましたが、かろうじて送り火は規模が縮小されながらも来月実施されます。生まれて初めて祇園囃子の聞こえない7月を過ごしていますが、改めて当たり前ではない日常に感謝し、送り火を静かに豊かに鑑賞したいです。
『近世の数寄空間ー洛中の屋敷、洛外の茶屋ー』(中央公論美術出版)より
最後まで読んで下さり有難うございました。原田良子