2019年11月23日

大久保利通の茶室「有待庵」の来歴について(「桂ノ宮内尾崎」の考察)

■はじめに、大久保利通の茶室「有待庵」の来歴を把握するには、大久保利通旧邸(以下、石薬師邸)の所有者の変遷をおさえる事は必須であり、以下3点の史料等から検討した。

1.大久保利通 三男 利武の講演録『有待庵を繞る維新史談』(同志社 昭和19年刊、以下『維新史談』)

2.大久保利通旧邸跡(京都市上京区)『旧土地台帳』(京都地方法務局 所収)

3.利武の聞書き『石薬師直話(雑)』(大久保家史料)

■1.『有待庵を繞る維新史談』は、昭和17年に同志社の総長 牧野虎次が主催し、大久保利武(大久保利通の三男、当時、大阪府知事)の講演会が有待庵で開かれた際の講演録である。37頁に利武が石薬師邸を買い戻すまでの様子が語られる。

利通が明治元年6月、東京へ赴任する際、家来へてから々して京都御所に仕へた寺島と云へる女官の手に入り、四十年隠居の宅住まひになり、割合よく保存されて居りまして、私が大阪府知事時代、大正三年、隠居も巳に逝くなり居ることを聞き、譲り受けたのであります。(37頁)

■2.『旧土地台帳』(写真1)には、制度が始まった明治20年代以降の石薬師邸(土地)の所有者等の記載がある。そこには確かに、利武が大正3年3月4日に所有したことが明記され、『維新史談』で語られた事を裏付ける。

大久保旧邸 旧土地台帳.PNG

写真1 

所有者は年代順に以下6名の記載がある。制度変更に伴い、土地・建物登記簿へと移管したことから昭和35年以降の記載はない。

@松本宗達

A寺島富子

B寺島正之

C大久保利武

D大久保利謙

E岩田氏

■3.『石薬師直話(雑)』(大久保家史料)(写真2)は、大久保家ご当主(利武の孫)大久保利泰氏よりをご提供頂け、掲載の許可も得た。

当史料は、利武が大阪府知事時代の大正3年に石薬師邸を買い戻した時、地元の紙商 西村安兵衛に聞き書きした記録で、国立歴史民族博物館にも寄贈されていない大久保家史料である。

直話 大久保家史料.jpg

写真2『石薬師直話(雑)』(大久保家史料)(一箇所、加筆)

 以下、一部抜粋する。

石薬師邸宅ハ、大久保公御維新ノ際参与ノ重職ニ就カレテカラハ

彼ノ通リ甚タ手狭マニテ出這リノ上ニサヘ困ラレ一時桂ノ宮内尾崎ヘ引移ラレタ

是カ明治元年ノ春ニナツテカラソシテ同年六月江戸ニ行カルゝマテ居ラレタ

石薬師ノ御宅ハ公ノ東上ノ際ニ家来鎌田某ニ賜リ後鎌田ハ徳大寺公ノ家来松本宗達ニ譲リ

明治廿三年に宮内省女官寺島富子(代々宮中ノ眼医者ノ家)カ

出町ノ紙商西村(現ニ猶存在セリ)ノ斡旋ニヨリ買入レ

廿九年ヨリ四十年同人死ヌマテ住居シ大正四年春ニ至ルマテ後継者正之ノ手ニ存シタルモノナリ(中略)

石薬師邸の来歴に考える上で、大久保の拠点に関わる箇所として、上記の『石薬師直話』の冒頭、維新後に参与となった大久保は「甚タ手狭マニテ出這リノ上ニサヘ困ラレ一時桂ノ宮内尾崎ヘ」移ったとある。

これは『維新史談』や『旧土地台帳』に記載のない知見である。

『維新史談』では、大久保が石薬師邸に居住した「慶応2年春〜慶応4年6月」

うち、「慶応4年春〜6月」まで、一時、桂ノ宮内尾崎へ移っていた事になる。そこはどこなのだろう? 

「桂ノ宮内尾崎」は、桂宮に仕えていた諸大夫 尾崎正康(『京都市姓氏歴史人物大辞典』角川書店 平成9年)が該当する。尾崎正康が明治4年9月15日に京都府に買得地として届出た文書(写真3)によると、

今出川通南裏寺町西江入三町常盤井殿町」に惣地坪168坪7歩4厘(うち本家43坪半)」の宅地を所有していた。

(尚、尾崎といえば、尾崎三良も思い浮かぶが尾崎三良の明治元年の洋行前後の居宅には母が同居しており、その可能性は低いと結論づけた)

尾崎 士族邸調書.jpg

写真3『士族邸宅調』(京都府立京都学・歴彩館蔵)(一箇所、加筆)

■現在の「常盤井殿町」は、今出川通より北にあり、町域のほとんどが同志社女子中学校・高等学校の敷地にあたる。しかし当時は今出川通より南、桂宮邸跡の東側も常盤井殿町の町域であった。明治2年2月、常盤井殿東町、西町、北町の三町が合わせて一町となった。当時は公家町であったが遷都で公家屋敷が減り、明治10〜11年に今出川通の南側の地は京都御苑に編入されている。今出川通の北側には維新前には二條家があったことから、尾崎が所有した宅地は必然的に今出川通の南側となる。

現在のところ正確に比定できる資料は見つけられていないが、今出川通南側の京都御苑内の現「今出川広場」の一画にあたる。

常盤井殿町 範囲 尾崎.jpg

 明治17年の常盤井殿町の町域、当時は今出川通を挟み南北に及んだ
御苑内の看板 尾崎.jpg
尾崎邸のあった「常盤井殿町」は現 京都御苑 北東の「今出川広場」(京都御苑の看板より)

■維新後、参与となった大久保は、石薬師邸(約60坪)から明治元年春に尾崎邸へ移った。常盤井殿町の宅地であるならば、そこは約168坪と石薬師邸の約3倍であり、手狭になったからとする理由に該当しそうだ。尾崎は住所を北横町で届けた公文書も存在し、尾崎自身は北横町に居住していたと考えられる。
京都御苑として整備される前は、現在にように
壁で仕切られていない地続きであった為、石薬師邸と尾崎邸はまさに目と鼻の先の距離といえ、第二夫人 杉浦ゆう(祇園・一力亭の娘)とのあいだに大久保にとって四男 達熊が慶応3年7月に誕生していることから、家庭と公の空間を別にし、かつ、行き来が容易な位置関係であったと考えられる。当時の石薬師御門の位置を再現し、常盤井殿町の範囲を示し、大久保利通旧邸(石薬師邸)との位置関係図を作成してみた。

石薬師御門と常盤井殿町.JPG

大久保利通邸(石薬師邸)と尾崎邸があった常盤井殿町範囲(新出高久氏協力)

引き移った期間は明治元年春から東行する同年6月までの数ヶ月であった為、『維新史談』では語られなかったのだろう。

 他には、『旧土地台帳』には記載がなく、『維新史談』で語られる利通が明治元年6月、東京へ赴任する際に家来家来某は、当史料の「東上ノ際ニ家来鎌田某ニ賜リ」から名前が「鎌田」某 とわかったが、人物は特定できなかった。

また、『旧土地台帳』の松本宗達は徳大寺の家来(家扶)、『維新史談』でも語られた寺島富子は宮内省女官で代々宮中の眼医者の家、後継者は寺島正之などより詳しくあり、地元の生き証人であり石薬師邸を斡旋した地元の紙商 西村安兵衛から熱心に聞き書きをされた利武の記録『石薬師邸直話(雑)』は誠に貴重な史料である。大久保家より直接ご提供頂けたことに改めて感謝したい。

石薬師邸の所有者の変遷

今までみてきた3点の史料と後述する昭和期の土地・建物登記簿(京都地方法務局)より把握できた石薬師邸の所有者の変遷を年代順に整理する。(時期は省略)

@大久保利通

A鎌田某

B松本宗達

C寺島富子

D寺島正之

E大久保利武

F大久保利謙

G岩田氏(男性)

H岩田氏(女性)

I前所有者(今年2019年5月に京都市へ有待庵を寄附譲渡された)

 前述した『維新史談』で利武が語ったように、大久保が東行してから約40年を経て利武は買い戻し、その間、所有者は4人変わっている。しかし、利武が「割合よく保存されて」いたとしているように、石薬師邸は利通の時代からそのままの状態であったことがうかがえる。(補修はされた可能性はある)

明治国家の建設に大きく貢献した大久保の名声は死後も衰えることはなく、たとえ2年間とはいえ実際に居住した石薬師邸をその後の所有者が全面的に解体したとは考えにくい。現在のようにリフォームが簡単にできる時代ではなく、明治期に大きな火事や地震もなかったことから建物が消失・崩壊する原因もない。利武が所有した大正4年には大正大礼が京都で行われ、それに合わせて茶室が公開された時には大久保と同時代の元帥 大山巌が訪れ、当時を懐かしんでいる。それは、石薬師邸が当時と同じ外観であったからといえるのではないか。

石薬師邸 外観.jpg

石薬師邸(大久保利泰氏ご提供)

利武が所有した大正〜昭和期にかけて有待庵は公開され、松方正義、西園寺公望、東郷平八郎など維新・薩摩関係者、文化人、地元名望家が、昭和大礼時には、千宗室、千宗左、藪内紹智など茶室関係者も訪れている。

■有待庵の来歴

京都地方法務局所収の石薬師邸の所在地登記簿謄本によると、昭和51年7月26日、単体で「茶室」が「木造杉皮葺平屋建」「6.41平方メートル」で登記されている。このことから判明したのは、かつては母屋と廊下で接続されていた有待庵が、大久保家が手放した昭和34年から登記で明記された51年の間に母屋と切断され単体の建物となった。

昭和51年 登記簿.jpg登記簿 2 茶室.jpg

 今年の5月9日に現存を確認した時、屋根は銅板であったことから、昭和51年以降に「杉皮葺」から「銅板」に替わる屋根の改変が加えられたおおよその時期も把握できた。

また、有待庵の吊床に「暦貼」(慶応3年とある)が貼られている古写真から、客人を迎えるために施されであろう腰貼は、他の和紙が貼られた写真も存在するが、それら痕跡も現存確認時に見られなかったので、母屋と切断した時、もしくは屋根を替えた時に、土壁もいったん壊されたと推定する。それに伴い、下地窓の障子も、大久保の時代から当時(昭和期)の障子に替えた。しかし、四隅の柱は、古写真と同じであることは現存確認時に目視であるが確認できた。

有待庵 暦貼 敬天愛人.JPG

(大久保利泰氏ご提供)

■おわりに

簡単ではあるが、公開されている史料と現存確認時の実見などから石薬師邸と有待庵 来歴を整理した。大久保利泰氏より直接ご提供頂けた『石薬師直話(雑)』のおかげで前進した。これらは近畿枕崎会会報『火の神』(第68号 号外)で既に活字化した内容である。昨年、枕崎市からご依頼を頂け市内小学校等で講演をさせて頂いたご縁から発表した。

まだまだ調査不足であるが、有待庵は間取りはそのままで令和の時代まで残っていたことは、所有者が変われど大久保利通の茶室として大切にされてきた証といえよう。

近い将来、この有待庵が移築復元され、一般公開が予定されている。子どもたちや修学旅行生も気軽に訪れ、実物に触れ、歴史を身近に感じてもらえれば望外の喜びだ。筆者もその時を心待ちにしながら、これからも積み重ねていきたい。


■有待庵は大久保利通関連の遺蹟を第一義として保存された。御花畑から貰い受けた(移築)茶室という説が理由ではない。その事は、京都市文化財保護課 中川慶太課長が「大久保利通関連の遺構が少ない中で、2年間とはいえ、大久保が過ごした空間を市民と共有していければ」と見解され、報道もされている。
尚、その上で、「御花畑絵図」(鹿児島県歴史資料センター蔵「玉里島津家史料」)と有待庵の平面図を取り上げて考察した寄稿(2019年6月13日付 京都新聞)はこちら→ 大久保利通 茶室「有待庵」歴史的価値と保存を考える 原田良子
さいごに、桂ノ宮内尾崎の尾崎邸の「常盤井殿町」の範囲を朱色で表し、京都の薩摩藩施設・主要人物の寓居等の位置図(新出高久氏作成)もご参照下さい。
全体図 常葉井殿町.jpg

 

posted by 原田良子 at 17:08| 日記