2019年10月31日

京都新聞 寄稿:大久保利通 茶室「有待庵」歴史的価値と保存を考える(2019/06/13付)

2019年6月13日(木)、京都新聞 朝刊 文化8面に掲載頂けた寄稿を改めて下記に記します。

京都新聞 寄稿 御花畑絵図と符号 2019年6月13日(木).png

 

大久保利通 茶室「有待庵」歴史的価値と保存を考える」

 

京都市が移築保存の方針を示している大久保利通の茶室「有待庵」(京都市上京区)について、先月上旬に現存を確認した歴史研究者の原田良子さんに「発見」の経緯や、茶室の来歴について寄稿してもらった。

 

筆者は5月9日、京都御苑に沿って寺町通を北に向かっていた。石薬師通でふと右手に目を向けた時、かねてから研究対象にしてきた幕末期の大久保利通旧邸跡敷地に工事が入ろうとしていることに気づいた。現場監督の許しを得て敷地奥の庭に入ると、そこには風雪に耐えた茶室「有待庵」の姿があった。維新の現場が突然目の前に現れた瞬間だった。

 

解体直前に発見

しかし、茶室入口には廃材が積まれ、いつ取り壊されてもおかしくない状況。かろうじて開けることができた小窓から手を差し入れてスマートフォンで内部を撮影し、構造を確認する。大久保家に伝わる古写真の記憶をたぐり寄せ、有待庵そのものであることを確信した。

 大久保家より 有待庵.jpg

 (大久保利泰氏ご提供)

 

ただ現在は個人の住宅。「とにかく保存を」との気持ちを抑え、文化財保護に理解のある有識者らに連絡して最善の方法を模索し始めた。翌10日には市文化財保護課へ相談に行き、20日の現地視察の約束を取り付け、最終的には所有者のご意向で、市による保存活用の道が開けた。

 

命名の由来

大久保利通は1866(慶応2)年春から68年6月までの約2年間、この茶室のある石薬師邸に居住し、藩邸外での政治活動拠点となった。維新後にはいったん大久保家の手を離れたが、利通の三男利武(1865〜1943年)が大阪府知事時代の1914(大正3)年に買い戻す。翌年から昭和初期にかけては、利通に関わる史跡として広く知られ、地元名士や文人、維新関係者らによる見学会が催された記録も残る。

 

1942(昭和17)年に行われた利武氏の講演会の記録『有待庵を繞る維新史談』(昭和19年 同志社刊)によると、薩長同盟締結後の1866年春以降、この屋敷では薩長の密談が盛んに行われていた。利武に招かれた維新関係者も屋敷や茶室の思い出をいろいろと語っており、薩摩出身の軍人大山巌(1842〜1916年)は1915年に石薬師邸を訪れ、西郷隆盛の護衛役だった当時の同邸をめぐる記憶を振り返っている。

 

有待庵は北、西、南の三面が障子戸という開放的な造り。密談の際、周囲の動向が分かるよう構造を選んだと思われる。利通の逸話を集めた「甲東逸話」(勝田孫弥著)によると、南隣の家も藩士潜伏宅として利用されており、庭を介して行き来できたという。

 

講演録によれば「有待」とは、「ただ待つのではなく、いつ敵が来襲してもいいように準備すべし」と解釈される孫子言葉。利通が当邸にいるに知人に揮毫したと伝わり、後に茶室の名称となった。

維新史談.png

 (大久保洋子様より寄贈頂けた『有待庵を繞る維新史談』

 

消えた茶室

講演録には、この茶室は薩長同盟の舞台「御花畑」の茶室を移築したと記載されている。御花畑とは、五摂家筆頭近衛家別邸の呼称で、当時は近衛家と姻戚関係にある島津家薩摩藩家老・小松帯刀の寓居だった。その場所は長年不明だったが、2016年5月、筆者は1871(明治4)年に近衛家が京都府に届けた文書と敷地見取り図を府行政文書から発見し、その所在地とその規模が判明した。その後に初公開された「御花畑絵図」(鹿児島県歴史資料センター黎明館蔵)から屋敷の詳細もわかり、府の文書には記載のない二つの茶室が描かれていた。

IMG_1863.JPG

 (茶室の記載がない京都府行政文書)

 

先月20日の調査によって、有待庵は、柱の痕跡などから移築されたものであることが確認された。御花畑絵図にはあり、明治初期の文書では消えていた茶室が移築されたのではないかー。さまざまな傍証から、筆者は、絵図の北側(右下)にある小さな方の茶室(以下、北茶室)が解体され、大久保旧邸の間口の狭い町家の奥庭に合わせて改造され、有待庵に仕立てられたと考えている。

北茶室 御花畑邸絵図模式図.jpg

(下 ↓ が北を指す、右下の〇で囲んだのが「北茶室」)

 

■特殊サイズの建具 再利用か■ 

北茶室には「台目畳」(大目畳とも表記)という長辺が通常の4分の3サイズの畳が複数使われている。その結果、相関関係図の「ア」や「イ」のような特殊な長さの建具や壁が必要になる。一方、有待庵に台目畳は使われていないが、図の「ウ」と「エ」にこの大きさの障子戸が使われている。「ウ」は南端に板間を設けることで長さを調整し、「エ」は明障子で帳尻を合わせている。これらの工夫は、建材再利用の意図から出たものであろう。「ア」や「イ」にあったとみられる障子戸は、「ウ」「エ」の位置に転用されたと考えられる。

相関図 有待庵 敬天愛人.jpg 

 

■柱には移築の痕跡■

また、有待庵に使われている樹皮付きのアカマツの床柱には移築の痕跡があり、御花畑の床柱再利用されたと推察される。他方で今回の調査によって、昭和期に入ってからもたびたび手が加えられていたことが判明した。基本的な構造や、使用に耐える古材は生かしつつ、壁や屋根などは比較的近年に改修されている。

 

 以上のことから「薩長同盟」会談の目撃者ともいえる茶室が、有待庵に姿を変えて現存していてくれたと考え、間違いないだろう。保存の道が開けたこの茶室が移築・再建されて一般公開される日まで、筆者も微力ながら力を尽くせるよう有待の思いで準備したい。(原田良子)

 

※ 当研究は、平井俊行氏(京都府立京都学・歴彩館 副館長)にご教示を頂きました。
記事化には、京都新聞、阿部秀俊記者にお世話になりました。有難うございました。

 

posted by 原田良子 at 16:54| 日記