■はじめに
大久保利通の茶室「有待庵」は、近衛家別邸「御花畑」(小松帯刀京都寓居・薩長同盟締結地)の茶室を貰い受けたと伝わります。
筆者は2016年、御花畑邸にあった茶室2棟の平面図と有待庵の内部写真を検討した結果、完全に同じかたちでの移築ではない。ことを考察しました。(拙稿「薩長同盟締結の地「御花畑」発見」(西郷南洲顕彰会刊『敬天愛人』第34号2016年、))
その上で、御花畑邸の茶室の間取りと大久保家に伝わる有待庵の写真(現存確認した時の有待庵と同じ間取り)から、
御花畑邸の2棟の茶室のうち、「北茶室」が大久保利通旧邸に移し設けられたと考え、京都新聞 寄稿で公表しました。
(※ 下記の模式図内 右下に〇で囲んだ茶室、便宜上、「北茶室」と称した。下が北方角。)
御花畑模式図2019(「御花畑絵図」(鹿児島県歴史資料センター黎明館蔵、玉里島津家資料)から模式図(協力:新出高久氏)
大久保利通旧邸(以後、大久保旧邸)の間口の狭い町屋の奥庭の面積に、御花畑の茶室を全く同じかたちで移築することはそもそも物理的にも不可能です。
即ち、
御花畑の茶室が解体され、その部材で大久保旧邸の奥庭に合わせて改造され、有待庵に仕立てられたと推察しています。
(「大久保利通茶室「有待庵」歴史的価値と保存を考える」2019(令和元年)6月13日(木)京都新聞朝刊文化8面)
■『有待庵を繞る維新史談』
大正3年に大久保利通旧邸を買い戻した三男 利武(当時、大阪府知事)は、父 利通が西郷隆盛や木戸孝允、岩倉具視らとの密談の様子を以下のように語られています。
「この旧宅に利通が引き移りましてから来客の出入りも多く、幕府からも終始眼を附けられ、時々怪しき者も徘徊し、戸外より立ち聞きする者もあり、警戒の必要もあるので、小松帯刀が京都を去り帰藩することになつた際、小松に請ふてあの茶室を貰い受け、人目に立たぬこの旧宅の奥に移し設けたもので、已に薩長連合の密談の際に用いられたものが、所変わり手其後も亦この旧宅に於いて、幾多重要なる国事の密談用に供せられたのは実に珍しく、貴重な使命を勤めた史蹟とも云うべきであると思ふのであります」
(大久保利武の講演録『有待庵を繞る維新史談』(昭和19年同志社刊)28頁。以後、『維新史談』)
講演録は、利武の息子 利謙氏(歴史学者)が引き継ぐかたちでは編まれ『維新史談』は完成しました。
(大久保利通の玄孫、利武のお孫 大久保洋子様より賜りました)
■大久保利通の茶室
利武が旧邸を手にいれるまでの間、旧邸は改築されていない様子が講演録にもあり、利通が居住していた当時のままで間口の狭い京町屋の敷地奥、面積の狭い奥庭に位置した大久保利通の茶室「有待庵」もそのまま残っていたと考えるのが妥当です。
たとえ、数十年経っていようが、現代のようにリフォームや改築が簡単に行える時代ではありません。
古くなろうが、すべて解体するような理由は見当たりませんし、
何よりも、地震等で建物が倒壊するような自然災害は明治期に起こっておらず、解体は考えられません。
現存確認できた時の有待庵は、大久保家に伝わる有待庵の写真とまったく同じ間取りでした。現在まで原型をとどめなから、補修が重ねられ、残されたといえます。それは、利通ゆかりの茶室と大切にされてきた証拠と考えます。
■土蔵の存在、勝田孫弥著『甲東逸話』
有待庵の東隣には当時から土蔵があり、5月9日(木)現存確認時にも土蔵はあり、外壁で補強されていたものの内部はかなり古いことがわかりました。そのことからも、有待庵の位置は当時からほぼ変わらないと現時点で推定しています。
大久保利通の逸話を集めた『甲東逸話』(勝田孫弥著、昭和3年)によると、南隣の家も長州藩士潜伏用に借りられており、庭を介して行き来できたとあり、土蔵付近の潜戸についても触れられている。
■大久保家の証言
何よりも、利武自身が、この茶室は父 利通の茶室である。と語り、歴史学者の利謙もそれを引き継いでいます。
利武が大久保旧邸を買い戻したとき、父の茶室がたとえ古くなっていたとしても、全面的に解体し、全く別の形の茶室へと作り変えるでしょうか?
有待庵は父の茶室である。と利武が伝え、当時の写真と今回確認した有待庵の間取りがそのままであることは、時代を経て、茶室として使われなくなっても、間取りをそのまま残す努力をされていることから、紛れもない大久保利通の茶室である。と考えます。
(大久保利通ご子孫、現ご当主 大久保利泰氏ご提供)
(令和元年5月9日(木)現存確認時に筆者撮影)
有待庵が大久保利通の茶室ではない。とすることは、利武が虚偽を言っている。とされるのと同じことです。
仮に、大久保利通の茶室ではない。とするなら、根拠を示して欲しい。裏付ける資料や記録等から批判して欲しい。利通の茶室ではない。と断定されるなら。研究が前に進む批判であって欲しいと願います。
もちろん、昭和時期に母屋と切断され単体となった有待庵の屋根や壁に手が入っていることは現存確認した時点で既に把握しています。
有待庵が間取りがそのままで修理を重ねられていることも、京都新聞寄稿で紹介しています。(以上)