後記:2019年5月9日(木)15:55、大久保利通の茶室「有待庵」の現存を確認できました。その時からなんとか保存できないものかと望みましたが、所有者は行政でも企業でもなく個人です。既に解体工事に入っている段階で、移築保存を望むことは、工事全体の工程延期を伴います。それらすべて所有者である個人にかかってきます。個人が決断をせまられる現状の中、良い方向へ向かうよう、関係者は最善を尽くして下さっていますので静観をお願い致します。
現存確認後すぐに、かねてから研究でお世話になっている平井俊行先生(歴彩館 副館長)へ調査頂けるよう打診させて頂きました。文化財保護にも理解ある京都市在住の歴史学者 磯田道史先生にも相談させて頂きました。
翌10日(金)09:30、京都市文化財保護課へ出向き、中川慶太課長と面談させて頂きました。現存確認後すぐに作成した資料「大久保利通旧邸 茶室 有待庵について」(下記)を提出し、調査に来て頂ける運びとなりました。
現存確認後すぐに、かねてから研究でお世話になっている平井俊行先生(歴彩館 副館長)へ調査頂けるよう打診させて頂きました。文化財保護にも理解ある京都市在住の歴史学者 磯田道史先生にも相談させて頂きました。
翌10日(金)09:30、京都市文化財保護課へ出向き、中川慶太課長と面談させて頂きました。現存確認後すぐに作成した資料「大久保利通旧邸 茶室 有待庵について」(下記)を提出し、調査に来て頂ける運びとなりました。
何よりも、所有者より調査の為に工事の一時ストップの許諾を頂けました。御厚意のおかげで、調査の為に4時間頂けました。
尚、発言には責任が伴いますので、「有待庵」の現地調査に入って頂くことが可能になった段階での以下の報道では、筆者は「記録保存を目指す」という表現にとどめています。移築保存を掲げることは、すべて個人である所有者へのプレッシャーとなります。初動の関係者は現実的な対話を積み重ね最善の道を探っています。どうかご理解頂けますよう、よろしくお願い申し上げます。関係者皆様に感謝です。原田良子
市文化財保護課へ持参した資料「大久保利通旧邸 茶室 有待庵について」(以下、一部抜粋)
1 有待庵とはいったん人手にわたっていたこの屋敷を大正3年に買い戻した大久保利通の三男 利武(当時大阪府知事)が内藤湖南らの賛意をうけて命名。 また、有待庵の扁額は西園寺公望揮毫。
2 昭和17年に同志社が主催したこの庵での利武講演会によれば、慶応2年に大久保はこの屋敷を手に入れ、その後小松帯刀寓居の「御花畑」より茶室を移築した。
3 大久保はこの茶室を密談に利用したエピソードが講演で触れられている。なお、この講演会には当時の京都市長篠原英太郎氏も参加。
4 屋根が板葺から瓦屋根、母屋との渡り廊下切断などの改変を受けているが、基本的な構造は完全に残っている。
5 近年発見の「御花畑」絵図には、完全に一致する茶室はないが、絵図には茶室が二棟描かれており、そのうちの一棟を解体した部材を活用して再建築した可能性が高い。専門家による調査によりその可能性も明らかになるであろう。
■この茶室は、その来歴からかつて大久保、西郷、小松帯刀らが利用した歴史的価値の高い茶室遺構であり、中京区土手町に残る木戸孝允旧邸と同様の意義をもつ建物である。
■昭和2年には「大久保利通旧邸」石碑が京都市教育会によって建立され、すでに顕彰された周知の遺蹟である。
■その意義を考慮するならば、今回取り壊し前に何らかの手段で現状保存、移築保存、あるいは記録保存などがなされるべきものと考える。(以上)
※後記:利武が買い戻したのは大正3年であることを訂正致します。
■はじめに
今朝2019年5月14日(火)京都新聞 朝刊 社会1面に掲載頂けました。
「大久保利通の茶室現存」「上京・住宅解体現場 在野の研究者確認」「小松帯刀邸から移築 調査、記録呼び掛け」
奇しくも本日は大久保利通の命日です。関係者の皆様、京都新聞 阿部記者に感謝です。
(大久保利通銅像:鹿児島市)
(京都新聞 朝刊 令和元(2019)年5月14日)阿部様、有難うございました。
■鹿児島放送KKBニュースでも報道頂けました。「大久保利通没後141年幕末の密談を知る茶室を確認」
以下より視聴可能です(動画内の筆者は昨年2018年12月7日の記者会見の画像です)中西様、有難うございました。
■今回の経緯
はじめに、大久保利通旧邸は、京都市歴史資料館運用「いしぶみデータベース」にも掲載されており、当地には、昭和2年7月に京都市教育会という団体による石碑「大久保利通旧邸」が建ち、すでに顕彰されている確かな史跡地です。
(現 石碑は施主様の御厚意で今回撤去されないとのことでした)
■御花畑から移築したとされる茶室「有待庵」
明治国家建設の功労者 大久保利通は、慶應2年正月から同4年(明治元年)6月まで、上京区石薬師通寺町東入南側に居住していました。明治維新へと大きく牽引した薩摩藩の二本松薩摩藩邸(現 同志社大学今出川校地の一部)近く、禁裏(御所)東に位置する大久保利通旧邸は「御花畑」や西郷隆盛塔の段寓居と同様に、居宅であり重要な政治拠点でした。
筆者にとっては、小松帯刀寓居であった「御花畑」屋敷(近衛家別邸)より移築したとされる茶室(後に「有待庵」と命名される)を備えた大久保旧邸は研究対象でもあり、訪問や近隣での聞き取り等かねてから調査を進めていました。
■長らく確認されていなかった「有待庵」
しかし、大久保旧邸は大久保家所有から人手にわたった後、外側から確認できない敷地奥に位置した「有待庵」は、長らく、一般の目には触れられない状況で、その実態を確認することは難しい状況でした。
有待庵は現存しているのか? それとも、すでに消失しているのか?
確かめる術がありませんでした。
■京都府行政文書には茶室の記載がなかった
薩長同盟締結地である「御花畑」御屋敷(近衛家別邸・小松帯刀京都寓居)については、先行研究を受けて、2016年5月初旬、京都府行政文書の発見により、所有者 近衛家が、京都市上京区「森之木町」で、京都府に届け出た、約1800坪の広大な邸宅地であったことが判明しました。添えられていた図には、屋敷内の家屋等が坪数と共に明記されていましたが、茶室の記述はなく、このことは、明治4年の届出時には茶室がなかったことを意味し、大久保利通旧邸に移築されたエピソードを裏付けると考えていました。
(明治4年作成「貫属士族受領並拝借買得邸一件」(京都府土木課文書)
■絵図に描かれた茶室2棟
鹿児島県歴史資料センター黎明館 所蔵の 「御花畑絵図」には、茶室が2棟が描かれています。筆者は黎明館の許可を得て、データ取得や実見に赴き、模式図を作成しました。(協力:新出高久氏)
■古写真により周知されていた有待庵
有待庵の古写真は、国立歴史民族博物館 企画展示「大久保利通とその時代」(2015年10月6日(火)〜12月6日(日))にも展示されました。
他にも、大久保利武講演録『有待庵を繞る維新史談ー大久保侯爵講演』(同志社講演集1944年)などにも有待庵の写真が所収されています。利武氏は大久保利通の三男にあたります。
■拙稿での推定
そして、図録所収の大正期の有待庵の写真から起こした図面等と、御花畑にあった茶室とは形態等が異なることを把握し、
拙稿「薩長同盟締結地「御花畑」発見」(、西郷南洲顕彰会刊『敬天愛人』第34号2016年9月24日)本文で以下のように記しました。
「囲炉裏をもったタイプの異なる茶室が邸の西北と御花畑の東端に描かれている。この邸の茶室がのちに京内石薬師町の大久保利通の私邸に移され、密談に使われたと大久保の三男(利武)が講演録(註12:大久保利武『有待庵を繞る維新史談ー大久保侯爵講演』同志社講演集1944年)で語っているが、大正期の写真を見る限りどちらとも完全には一致しない。また、移築時期もはっきりしていないので検討を要するだろう。」
■現存していた「有待庵」
2019年5月9日(木)15:53、たまたま大久保利通旧邸 近くを通りかかった筆者は、住宅が解体されるとわかりました。とっさに、茶室「有待庵」のことが思い浮かび、工事関係者さんに声をかけたところ、
解体初日でまだ重機も入っていなかったことから、見せて頂けることになり、邸宅奥へと進みました。
敷地奥の南端の庭に、単体の茶室がありました。
茶室入口には廃棄材などが積まれ、中には入れない状況でしたが、茶室左手(東側)の小窓から手を差し入れ、携帯で室内を撮った写真から、把握していた大正期の有待庵の写真と間取りが一致することが判明しました。
一方で、拙稿で明記したように、御花畑にあった茶室の間取りも熟知していたので、目の前の有待庵とは完全に一致しないことも確認しました。
すなわち、御花畑にあった茶室は慶応2年春以降の移築時に解体され、大久保旧邸の奥庭の敷地に合わせて形態を変えて仕立てられたと考えました。部材等はそのまま活用されたので、譲り受けたことを広義には移築と認識されたと考えます。
その茶室は「有待庵」と命名され、大久保家に伝わっていた大正、昭和時代の「有待庵」の古写真から把握できた間取りと、今回、確認でいた茶室は、室内の間取りが一致することから、大久保利通の茶室「有待庵」そのものと判明したのです。
■大久保利武の講演録『有待庵を繞る維新史談』(昭和19年同志社刊)より※講演は昭和17年催行。
大久保利通の三男 利武は、父 利通が西郷隆盛や木戸孝允、岩倉具視らとの密談の様子を以下のように語られています。
「この旧宅に利通が引き移りましてから来客の出入りも多く、幕府からも終始眼を附けられ、時々怪しき者も徘徊し、戸外より立ち聞きする者もあり、警戒の必要もあるので、小松帯刀が京都を去り帰藩することになつた際、小松に請ふてあの茶室を貰い受け、人目に立たぬこの旧宅の奥に移し設けたもので、已に薩長連合の密談の際に用いられたものが、所変わり手其後も亦この旧宅に於いて、幾多重要なる国事の密談用に供せられたのは実に珍しく、貴重な使命を勤めた史蹟とも云うべきであると思ふのであります」(『維新史談』28頁)
講演録は、利武の息子 利謙氏(歴史学者)が引き継ぐかたちでは編まれ『維新史談』は完成しました。
利武が旧邸を手にいれるまでの間、旧邸は改築されていない様子が講演録にもあり、利通が居住していた当時のままで間口の狭い京町屋の敷地奥、面積の狭い奥庭に位置した有待庵もそのまま残っていたと考えます。有待庵の東隣には当時から土蔵があり、現存確認時、土蔵は外壁で補強されていたものの内部はかなり古い土蔵でした。そのことからも、有待庵の位置は当時から変わらないと現時点で推定しています。
何より、利武自身が、この茶室は父 利通の茶室である。と語り、歴史学者の利謙もそれを引き継いでいます。
利武が父の茶室を全面的に解体し、全く別の形の茶室に作り変えるでしょうか? 有待庵は大久保利通の茶室である。と利武が仰ってるので間違いないと考えます。
もちろん、昭和時期に母屋と切断され単体となった有待庵の屋根や壁に手が入っていることは現存確認した時点で把握しています。有待庵が間取りはそのままで修理を重ねられていることも、京都新聞寄稿で紹介しています。
※ 現在、大久保旧邸は重機の入った解体工事中で安全性の為にも私有地であることからも絶対に中へは入ることは許されていません。
(筆者撮影:2019年5月9日15:55)
(大久保家 現ご当主 大久保利泰 氏 ご提供)
大久保利通の茶室「有待庵」は現存していました。
大変嬉しい発見でした。しかし、すでに解体工事に入っている段階です。
今朝の京都新聞の記事は、誰も辛い立場にならないよう配慮下さり、現状を報告いただけました。
鹿児島放送も同様です。
ご尽力下さっている方のおかげもあり、京都市文化財保護課 担当者さんも、視察に来て頂けることとなりました。心から感謝です。
これからも、関係者の皆様に敬意をはらい、最善を探っていければと願っています。
そんな中、解体を機に、大久保利通ゆかりの地へ、小さな遺物をつないでいける話が進んでいます。(茶室ではありません)
所有者の御厚意に感謝致します。
(後日、修正あり)
最後まで読んでくださり、有難うございました。原田良子拝