2018年11月10日

西郷菊次郎京都邸宅は聖護院門跡内の「北御殿」

後記:西郷菊次郎が聖護院「北殿」(=北御殿)で賃料を支払っていた記録を、聖護院古文書研究所より提供頂けました。
この史料は目録にない史料で、聖護院門跡様も今回初めてお知りになれらたとお聞きしました。
この史料により、「北御殿」と推定し昨年10月15日刊『火の神』で公表したことが裏づけられ、関係者一同、喜んでおります。ずっと応援下さっている宮城泰年ご門主、宮城執事長、そして北御殿の可能性をご教示下さった平井俊行氏感謝です

西郷菊次郎が二代目京都市長時代に居住していた京都邸が門跡寺院 聖護院内であったことは、
・2018年9月3日(月)「ニュース630 / 京いちにち」(NHK京都放送局)
・9月19日(水)南日本新聞
・11月6日(火)読売新聞(全国)で報道頂きました。
(この時点で、聖護院古文書研究所より、西郷菊次郎が聖護院に居住していた記録はない。との返答を頂いていました。)
こうして菊次郎の拠点が周知いただけたことで、陰で支えた家族にも光を当てることとなり、大変喜ばしく、関係者の皆様に感謝でいっぱいです。

それまで漠然と聖護院とされながら、それは聖護院門跡をさすのか、それとも聖護院町という町名のことなのか
聖護院側に資料が確認されていないことから不明のままでした。
また、大野盛郁の日記に「聖護院内ノ西郷氏邸」とあっても、同様に、実際に聖護院古文書研究所(聖護院門跡とは別の機関)より聖護院門跡内に菊次郎が居住していた資料がない。と返答を頂いていた以上、聖護院町の邸宅とも考えられることから、聖護院門跡内だと特定できない事は常識であり関係者の間で認識されていました。
この度の報道で紹介された資料には「聖護院町 聖護院内 京都市長宅 西郷菊次郎」と聖護院が2つ続いて書かれ、聖護院町の聖護院内であることが明記され、聖護院門跡内であることの証明となりました。
※菊次郎の住所番地「上り畑44番地」資料については、聖護院ではない積善院も「上り畑44番地」とする資料が、京のアーカイブ(京都府京都学・歴彩館)で公開されています。2018年6月12日に住所番地資料、20日に番地資料のデータ(国立公文書館で公開されている)を龍郷町へと提供された同志社大学 佐野静代教授には比定された「上り畑44番地」には江戸時代以来、建物が建っていないのことを宮城泰年ご門主への聞き取りを含めた現地調査報告書を6月18日に龍郷町、佐野教授に提出しました。
その後、拙稿では聖護院古文書研究所に菊次郎が聖護院門跡に居住を示す賃料を払った記録などが見つかっていないこと、史料がない事実は聖護院門跡に居住していたとは考えられないことから、既存資料から考察し、西門北側にかつて存在した民家を推定したことを明記し、関係者への感謝を記しました。
その後の新聞報道でも、同じく聖護院古文書研究所に史料が見つかっていないことから、住所番地からは菊次郎邸の場所が特定できないこと。番地と邸宅の関係については更なる考察が必要であったため、佐野教授提供の番地資料も新聞社などへ公表の上、各報道機関の判断で、電話番号簿が報道されました。
写真A 電話簿   敬天愛人2018 原田良子 .jpg
一〇四聖護院町 聖護院内 京都市長宅 西郷菊次郎」(明治41年度発行『京都電話番号連合広告簿』京都学・歴彩館蔵)

聖護院内のどこに居住していたかについては、以下ほかで考察しました。
・拙稿@「西郷菊次郎の京都邸宅(菊草の終焉地)について」(『敬天愛人』第36号、2018年9月24日刊、西郷南洲顕彰会刊)
※ここでは、江戸時代から存在した「元 勘定場」が明治以後に改築(新築を含む)されたと推定される聖護院西門入る北側の建物に着目。現 聖護院御門主 宮城泰年 氏 所蔵の古写真からも、寺院とは別空間の民家が存在したことを明らかにし、ここに菊次郎邸の可能性を見いだしました。聖護院古文書研究所(聖護院門跡とは別で青谷美羽所長が委託されている)に菊次郎が居住していたことを示す史料が存在しないことの返答を確認し、もし門跡寺院内であるならば賃料を支払っている記録があるはずであり、門跡寺院内でありながら寺院とは別の空間を想定しました。聖護院史料が存在しないことを明記し、西門北側の民家が菊次郎邸だとは断定せず、その可能性があるとしています。
・拙稿A「西郷菊次郎京都市長時代の邸宅(菊草終焉地)発見」(「火の神」第66号、2018年10月15日刊、近畿枕崎会会報)
※さらに、龍郷町所蔵の菊次郎の家族写真(京都で撮影されたことのみを今年3月に考証した)の背景に写る建物について、8月、平井俊行氏(歴彩館 副館長)からご教示頂け、現存する北御殿であることが共同の現地調査で判明したことを報告しました。

聖護院古文書研究所より
現在(11月10日)も、菊次郎が聖護院に居住していたとされる資料は見つかっていない。との返答を受けています。

報道の際も責任が伴うことから確認し、西郷菊次郎の孫にあたる西郷隆文先生をはじめ、最初に報道頂けた  NHK京都放送局 記者、新聞社、ほか沢山の方と共有しています。

参考文献を書くのと同様、何を見ずに論考したのか明記することは大切でした。

京都市、聖護院ともに資料がない中、現地調査を重ねました。


拙稿@脱稿後、聖護院門跡 現 御門主 宮城泰年氏、宿泊施設「御殿荘」奥西支配人、足立氏らのご理解の元、9月に現地調査を開始し、最終的に10月2日(火)京都学・歴彩館 平井俊行副館長と共同で、さらなる聖護院御殿荘内を現地調査を実施しました。(8月31日に平井氏より北御殿の可能性をご教示頂けていました)
その結果、写真の背景となっていた聖護院北御殿に菊次郎と家族が居住していた可能性があると、現在は結論づけています。(なにぶん聖護院に史料が確認されていない以上、可能性にとどめるほかありません)
そして、北御殿を居室として借りていたなら、聖護院と京都市との間での賃借関係があったと考え、遺された史料を2年以上も探しています。(2016年から聖護院古文書研究所には資料の存在をたずねておりますが資料がないとの返答を得ています)
また、先に想定した民家も北御殿とは広大な庭を介して繋がっており、菊次郎邸宅の候補としての条件を備えていることも考えています。もう1枚の菊次郎の家族写真はこの庭撮影されている可能性を拙稿では考察しています。

 

火の神 北御殿.jpg
(「火の神」第66号)
北御殿についての知見は、上のように想定図とともに拙稿Aに寄稿済です。(10月15日刊)
10月29日(月)には、鹿児島県さつま町の上野副町長御一行、
そして本日11月10日(土)鹿児島から鮫島様御一行のまち歩きでも、北御殿を菊次郎京都邸宅としてご案内しました。
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菊次郎 北御殿 撮影場所.jpg
聖護院の北御殿(幕末指図より)は、一般的には現 聖護院御殿荘の入口から訪れることが可能です。
建物は改築されていますが、基礎部分は変わらないことが現地調査で確認できました。
10月30日、宮城御門主へ『火の神』を持参し、直接、報告させて頂けました。
ここは光格天皇ゆかりの一夜造御学問所に連なる空間です。北御殿は『寺院明細書』添付図(歴彩館蔵)によると、
「居間」との注記があり、間取りからも、日常生活をおくるに相応しいと判断できます。
その他にも研究は進み、新しい知見が明らかになってきています。
順次このブログでもお伝えさせて頂ければと思います。

 

改めて、関係者の皆様に感謝です。

※ 人名の誤字をご指摘頂け訂正致しました。お詫び申し上げます。

コピーライトマーク原田良子2018
posted by 原田良子 at 21:06| 日記