『御花畑』室町通に正門か 客人迎える茶室など存在
2016.09/27 の京都新聞朝刊 に寄稿を掲載いただけました。
薩長同盟から150年目の今年5月、締結地とされる「御花畑」(近衛家別邸、小松帯刀寓居)の場所を現在の京都市上京区森之木町(上京区上御霊中町、北区小山町にまたがる)と特定する公文書・京都府行政文書を発見することが出き、京都新聞6月10日朝刊で紹介いただきました。
「御花畑」は、近衛家と縁戚関係にあった島津家が借用し薩摩藩家老の小松帯刀が居住していた邸宅のこと。
幕末史に詳しい原口泉鹿児島大学名誉教授によると、慶応2(1866)年1月、薩長同盟が小松寓居で結ばれたというのは戦前からの定説であり、『鹿児島県史第三巻』にも明記されている。
森之木町で届け出
発見した資料は、先般一時閉館した京都府立総合資料館に所蔵されている膨大な京都府行政文書の中にあった。
「貫属士族受領並拝借買得邸一件」(土木課文書)という明治4年の簿冊の中にあり、近衛家が「上京七番組室町通鞍馬口下ル森木町」(現在の森之木町)で届け出た文書と邸宅地を示した添付図によって、まざまな新事実が明らかになった。
御花畑は約1800坪という広大な敷地で、「瓦住居二階建」「瓦平家長屋」「土蔵」などの建物があったことが判明。
敷地は現在の森之木町、上御霊中町、小山町の三町にまたがっていたが、近衛家が「森之木町」として届け、府が受理した公文書であることから、「御花畑」は森之木町に所在と表現した。
また、この文書には「名代」がたてられている。登谷一伸宏氏の「近世の公家社会と京都−集住のかたちと都市社会ー」(思文閣出版)によると、公家が町人の土地を買得する場合、町役などの負担を確実にするため、町側は代理人をたてることを求めたという。
「御花畑」もそのケースだったことを考えると、近衛家が届けた森之木町に対して義務を負っていたと考えるのが自然であり、屋敷所在地も同町と表現するのが適当である。
舞台ふさわしく
一方、鹿児島県では「御花畑絵図」(県資料センター黎明館所華玉里島津家資料)が幕末薩摩外交展で5月24日初公開され、27日に閲覧した。
京都府文書にもあった門3ヶ所、門番所、社なども描かれ、「室町通森之木町、鞍馬口通小山町」の記述も確認した。
屋敷の位置表記は、府文書添付図にある「間口」「奥行」の記述から鞍馬口通御門が正門であり、小山町だ。という見方がある。
しかし、絵図の門の表記は全て「御門」であり、鞍馬口通御門を入ってすぐ右手には台所があるので、普段使いの門と考える。
一方、室町通は当時南北を貫くメインストリート の一つであり、それに面した門は客人を迎えるための御花畑や茶室、能舞台に直接つながることからも特別な正門と理解でいきる。裏門とはいえない。
御花畑はこのように小松の私邸にとどまらず規模も機能も準藩邸といえ、薩長同盟の舞台としてふさわしい屋敷であった。
ところで、明治維新150年目となる2018年のNHK大河ドラマの主人公は西郷隆盛であると今月8日発表された。
今回の発見に至る御花畑の場所を森之木町と想定した根拠の一つが、西郷隆盛文書の中の「御花畠水車を移設せよ」という記述である(「大西郷全集 第二巻」平凡社)。
戊辰戦争の後に出されたと推定される指示書である。
水車には水路が必要だが、森之木町周辺には賀茂川の水を引き、室町頭から禁裏(御所)へと流れる御用水路が流れていたことを古地図で確認した。
御花畑絵図でも古地図通りの屈曲した水路が描かれていた。
当時水車は主に精米に使われ、幕末、京に多数駐留した薩摩藩士や使用人らの兵糧に必要だったと推測する。
明治維新後、不要となった水車は指示通り移設されたようで府文書にも絵図にも水車は載っていない。
そしてあまり知られていないようだが、西郷隆盛の長男西郷菊次郎は2代目京都市長となり、第三琵琶湖疏水の完成に尽力した。くしくも、父子そろって京都の水利に関係したことになる。
明治維新への転機となった薩長同盟は謎が多かったが、多くの先行研究で解明か進みつつある。
そうした成乗も取り入れつつ、西郷隆盛と縁の深い京都が大河ドラマでも描かれることを期待したい。(以上)
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