2018年01月26日

幻の京都薩摩藩邸「岡崎屋敷」発見 原田良子

 幻の京都薩摩藩邸「岡崎屋敷」については、幕末の京都案内用に出版された古地図の何版かには登場するもの(註1)正確な位置や規模、存続期間などは全く不明でした。昨年2017年12月、古地図研究第一人者の伊東宗裕氏(佛教大学非常勤講師)のご教示を受けて、従来の古地図とは全く別系統の古地図を確認しました。以下、その経緯と成果を報告し、掲載いただけた原口泉氏の連載記事(2018.1.26 07:00 発信)を参照下さいませ。
原口泉幻の京都薩摩藩「岡崎屋敷」」(産経新聞「今こそ知りたい幕末明治」シリーズ

http://www.sankei.com/smp/region/news/180126/rgn1801260007-s1.html

(後記:その後、読売新聞 「維新150年」シリーズでも取り上げて頂きました。(2018年3月30日付))


 それは、明治の篤志家 鳩居堂の熊谷直行(第8代当主)が編んだ『鴨川沿革橋図』(京都女子大学所蔵)という巻物のなかに納められていた幕末の鴨川架橋などについてまとめたものでした。

 絵図は 御幸橋(現・荒神橋)の解説に付したもので、幕末に手狭な京都市中(洛中)から岡崎の地(洛外)に多くの藩邸が建設されるようになった経緯から、そこに駐屯する人員を御所の守衛(禁裏守護)に従来の二条橋や三条橋のほかに橋の増設が不可欠となり、西本願寺の献資によって、迅速に架橋された等の解説があります。地図は従来の古地図とは異なり、比較的正確に道路の形状やその中におさまる屋敷の輪郭が描かれていました。さらに薩摩藩屋敷の部分には

元治元年四月外柵成 慶応四年取払其後此処ヲ分割シテ横須賀大聖寺秋田富山ノ邸ヲ設クとあり、

面積も「凡 五万二千二百十坪」と記載があります。隣接する越前屋敷や加賀屋敷の坪数も明記されている点が画期的です。

 

 岡崎屋敷の地に記入されていた 「ヌエ塚ヒメ塚 」という古墓は、昭和30年まで、現・岡崎グランド・公園に残っており

そこかた屋敷地を現代の地図上にほぼおとすことができます。(伊東宗裕氏ご教示)

 (ヌエ塚、ヒメ塚は皇室の陵墓参考地で、957年に発掘調査されて、 古墓ではなく古墳時代後期の古墳であることが判明しています。)

 岡崎屋敷は、甲子園球場個分の広さで、現在の岡崎グランド・公園、ロームシアター京都、平安神宮のほとんどが岡崎屋敷です。(赤枠:薩摩藩岡崎屋敷、黒枠:越前藩屋敷)

岡崎屋敷の現在の範囲.jpg

今回の史料をもとに、幕末の諸藩邸の位置図を作成。(協力:新出高久)

 

岡崎 諸藩屋敷図.jpg

 幕末の諸藩邸の位置図コピーライトマーク2018原田良子、新出高久

 

 現在の岡崎屋敷周辺の写真です。

 

岡崎屋敷 現在1.jpg岡崎屋敷 現在2.jpg

 

岡崎公園、テニスコート                平安神宮

岡崎屋敷 現在3.jpg岡崎屋敷 現在4.jpg

ロームシアター京都              

 

慶応二年正月、京都に滞在していた薩摩藩家老 桂久武は上京日記には「此日岡崎御屋敷毎月例之通之一陳調練有之由」と岡崎に設けられた薩摩藩の調練場での月例訓練についての記述があります。

慶応2年正月21日(諸説あり)薩摩と長州は薩長同盟を結びました。場所は、一昨年2016年に特定された小松帯刀寓居の近衛家別邸「御花畑」です。(詳細は本ブログ内「薩長同盟締結地「御花畑」発見の経緯」を参照下さい)

 

桂久武の日記はこの前後のものです。同盟が結ばれたたあと、桂久武は小松帯刀とともに洛西衣笠山の麓に新たに調練場を設ける調査もしていることも記述があります。そこは、二本松薩摩藩邸(現京都市上京区)から西へ約3キロ、山城国葛野郡小松原村にあった薩摩藩調練兵場(現・立命館大学周辺)です。以下、原口泉氏の記事を参照下さい。

 

■原口泉「兵糧と弾薬から見た戊辰戦争(下)〜小松の縁〜」(産経新聞2017.1.27 07:00今こそ知りたい幕末明治」シリーズ

http://www.sankei.com/region/news/170127/rgn1701270046-n1.html

 

岡崎屋敷に5万坪があるにも関わらず、薩摩藩は調練場を新たに設けています。一昨年、坂本龍馬が寺田屋で幕吏に押収された薩摩藩から長州藩に渡されたとみられる書き付けの内容が鳥取藩士の記録からわかりました。(「京坂書通写」(鳥取藩県立博物館所蔵))これらのことから小松や西郷はやはり本気で長州藩と軍事同盟を結び、場合によっては決戦もやむなしとの決意を固めていたと考えます。

慶応三年末の小御所会議の時点で京都での薩摩の軍事力は相当のものとなっていたと考えます。戊辰戦争では、これら洛外に確保された調練場で訓練された精兵が錦の御旗とともに進撃しました。そして、戊辰戦争後、岡崎屋敷は御花畑屋敷に付設されていた「御花畠水車」とともに西郷隆盛の指示によって撤去されました。(原田良子・新出高久「薩長同盟締結地「御花畑」発見」(西郷南洲顕彰会刊『敬天愛人』第34号、2016年9月)

 

また、前述した御幸橋の解説図(『鴨川沿革橋図』(京都女子大学所蔵))の薩摩藩屋敷の箇所には「元治元年四月外柵成 慶応四年取払其後此処ヲ分割シテ横須賀大聖寺秋田富山ノ邸ヲ設ク」(元治元年4月に外柵が成され慶応4年(月日は欠くが)取り払われ、その後、此処を分割し、横須賀、大聖寺、秋田、富山邸を設けた)とあり、その内容を裏付ける慶応4年の古地図も存在します。(原田所蔵)

古地図 秋田屋敷など.jpg

「御花畑」に付設されていた「水車」も精米施設で兵站をになっていたとの考察は2016年論文に書きましたが、幕末薩摩藩の京都における軍事的な存在感は幕末政治史を考えていく上で重要な要素であり、今回の発見は意義深く、今後も深めていきます。

(以上、これらの考察は平成30年4月刊『地名探究』(京都地名研究会刊)にも掲載済(受理、平成29年12月末)


 

 京都の南北を流れる賀茂川(鴨川)以東、岡崎は、1895年に平安遷都1100年記念事業として第4回内国博覧会が開かれ、それにあわせて平安神宮が創建された地です。また、それ以前には京都疏水が完成しており、幕末の様子がまったくうかがえなくなっている。現在の岡崎は、京都府立図書館、近代美術館、動物園などがあり、京都の一大文化ゾーンとなっています。

また、岡崎屋敷内にあり、場所特定の大きな要因となった鵺塚、秘塚は、現在 移設されています。(撮影:原田良子)
鵺塚.jpg   秘塚.jpg

註1:桐野作人氏 は、南日本新聞 連載「さつま人国誌」で、鴨東の地に「薩州ヤシキ」とある古地図を見出され、岡崎屋敷を現・岡崎中学校あたりと想定され、岡崎屋敷に触れられている文献等についても紹介された。(桐野作人『さつま人国誌 幕末・明治編3』 南日本新聞社、2015年10月刊)一方、伊東宗裕氏(佛教大学非常勤講師)は、まったく違う「薩州ヤシキ」とある古地図を見出され、所蔵者の長谷川家住宅での「古地図展」を監修されたことからも、京都新聞で紹介されました。(2016年11月)
今回、ご教示いただけた伊東先生、そして先行研究者である桐野先生に改めて感謝を記します。
また、いち早く、一般読者へお届けくださった原口泉氏、作図協力の新出高久氏にも感謝です。

※ お問い合わせは以下のフォームよりお願い致します。原田良子拝
http://sego.sakura.ne.jp/postmail/postmail.html
posted by 原田良子 at 08:51| 日記