2016年11月20日

瀧家文書と御花畑御邸

 

 ※拙稿「薩長同盟締結地「御花畑」発見」(『敬天愛人』第34号、西郷南洲顕彰会 刊、2016年9月)より、

瀧家文書と御花畑邸」を紹介致します。

 

はじめに、

『近衛家 家司 瀧家関係文書』を翻刻、出版された石田善明さん

 

石田善明さん 瀧家文書.jpg

 

古文書を私費で購入され10年以上かけて翻刻されました。頭が下がります。

 亡き父と同じ、昭和9年生まれの石田さんのおかげで御花畑の研究が前進しています。

心から感謝申し上げます。

 


 

瀧家関係文書は江戸期の近衛家の家司の瀧家の記録文書である。

 

その中に幕末期の瀧伊織による、近衛家桜木邸の普請工事を詳細にかつ具体的に記述した「桜木町御殿御普請御作事控」とする記録がある。

「桜木町御殿」は、当時、近衛家が丸太町川端東入桜木町(現在、桜木町名はない)に所有していた千八百七拾七坪五厘の邸宅地である。現在、その地にはないが、天理教河原町大教会が存在する.(註1)

「控」は日付をおって事細かに記録され、大工棟梁の木子家からの建築費請求の明細もすべて記録された希有な史料であり、第一級の一次資料である。文久元年六月から、翌年九月までの記録が残っている。

 

以下、引用文の頁数は翻刻本による。

 

八月五日に「御普請中御花畑江御転還二付、今日申刻御出門二而御花畑江被為成候事」とみえる。

これは桜木邸普請中御花畑へ桜木邸住人が一時転居するために出立した記録である。

文面と当時の情勢から、この住人が安政の大獄で隠居した近衛忠煕であることは明らかである。

つまり、忠煕は隠居後、桜木町邸を居所としていたが、この時期改修を思い立ったと推察される。完成後の引っ越し記事をみると、忠煕は六女の信君(当時満十二歳)と桜木邸で同居していたようである。

 

八月二十五日に「蝋燭拾挺花畑へ御移り之節、源之丞ゟ先渡し置候得共、月ニ何挺と極り候様いたし度段申居候、右三口二見浦助ゟ承ル、隼人殿へ申入置候事[蝋燭を十挺(挺は蝋燭の数詞)花畑邸へお移りの時に、源之丞(瀧伊織の部下)に先渡していたが、月に何挺ときめるようにしたいといってきた。これを二見浦助(薩摩藩士で当時桜木邸に常住し、忠煕に仕えていたと推定)より聞いて、隼人殿(加治隼人、隠居所の小納戸役)へ申し入れた])」とみえ、実際に御花畑で忠煕が生活していた様子がうかがえる。

 

IMG_5182.PNG コピーライトマーク原田良子、新出高久2016

 

 

さて、文久元年十月六日に「御花畑御物見明後八日ゟ取解桜木町江勝手ニ引候様 木子少進江隼人殿ゟ今日被申付候事」とある。御花畑邸の御物見を明後日の八日より解体して、桜木邸にもってくるように御納戸役の加治隼人から大工棟梁の木子少進に申しつけられたのである。

 

この後、実際に御花畑邸の御物見では解体作業が行われ、部材が桜木邸に送られている。

十三日の記録に「御花畑御物見取解跡直し大工・屋根や等参ル、木品運送致候事」とあり、御物見解体した跡を「直し」ていて、大工、屋根職人などが派遣されている。

そして、連日「直し」作業がおこなわれ、二十六日には「御花畑御物見之処跡直し瓦等今日ニて致出来候事」とあり、瓦屋根なども葺いた新しい御物見が出来上がったとある。

 

一方、桜木邸へ運ばれた部材は、十一月朔(一日)に「御花畑ゟ引候御物見ヲ取建候御建物、今日棟上いたし候事」とあって棟上が行われた。

 

つまり、元の御花畑御物見は解体されて桜木邸で移設され、御花畑の御物見も別の形で再建されたことが知られる。

 

次に十一月十六日の覚書に「御花畑御舞台之間ニ有之候畳襖、且又御物見ニ有之候小障子弐枚、戸四枚等運送之事」とあり、そのあと御舞台之間と御物見ごとに細々と畳や襖、子障子等の種類や数を列記した上で、「右之通桜木御殿江運送之事」とあり、御花畑邸には「御舞台之間」とよばれる建物があったことがわかる。

 

十二月九日にはさらに残されていた部材も桜木邸へはこばれた記録がある。この後「御舞台之間」を解体した記録はないが、畳や襖をほとんどすべて持ち去られたあとは、おそらく解体されたであろうと想像できる。

 

絵図(玉里島津家資料「御花畑絵図」(鹿児島県資料センター黎明館所蔵)について説明した

「御モノミ」の記載、「空地」と朱書された貼紙の下にえがかれた舞台のようにみえる施設は、それぞれ桜木邸普請に活用された「御物見」および「御舞台之間」であることはほぼ確実である。舞台に附属する建物の畳の数と移送された畳の数もほぼ同じ面積であることからもこのことは裏付けられる。

 

さらに、文久二年二月九日には「御花畑ニ有之候古木・瓦之類桜木御殿江今日木子運送いたし候事」とあり、御花畑邸からさらに部材が桜木邸に運ばれたことがわかる。直後に古木や柱、桁などの建築部材が具体的に列挙されており、明記はされていないが御舞台之間の解体部材であった可能性がある。

 

こうして、絵図に貼られた貼り紙について理解できた。その他のところにも部分的に改築あとを張り紙で修正していった跡があり、その都度最新資料となるように配慮されたものであったようである。

 

IMG_5183.PNG

 

工事開始から約一年後の文久二年五月十七日は完成した桜木邸に正式に近衛忠煕が引き移る日と決定された。しかし、実際は十二日には御花畑邸の信君(忠煕六女)の御道具を桜木邸へ運送し、忠煕、信君は上御霊神社へ参詣したあと桜木邸へうつり、信君はそのままそこに居住し、忠煕は十六日に桜木邸から御花畑邸にいったん寄ってから近衛本邸にもどり、翌日にかねてからの予定どおり、正式に桜木邸へ移った。

 

以上のことから、御花畑邸は文久二年までは確実に近衛家の別邸として隠居となった忠煕の仮住まいに使われていたことがわかった。

 

また、貞姫輿入れ以後、薩摩藩士葛城彦一が近衛家に仕えていたように桜木邸にも二見浦助という薩摩藩士が常駐して忠煕に仕えていたことも明らかになった。

 

御花畑邸は展望台というべき御物見や水路、池をともなう大きな庭園(御花畑)をもち、

別に花壇も設けられ、タイプの異なる茶室が二カ所もあり、

さらに舞台興行まで可能な邸であった。

 

洛中洛外の境目という立地からも形式にこだわらず、花鳥風月を愛で、風流を楽しむ邸として利用されていたと評価できるであろう。

 

御花畑という名称にふさわしい邸であった。

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(註1)愛知県西尾市の西尾城内の歴史公園に邸宅は移築されて現存している。明治維新後、山階宮邸宅となり、その後天理教施設としてそのまま使われていた。昭和六十年に教会新築にあたって、保存のため移築された。


 

posted by 原田良子 at 18:11| 御花畑