2016年11月20日

近衛家別邸「御花畑」発見の経緯:原田良子

薩長同盟から150年目の2016年5月初旬それまで不明であった締結地、近衛家別邸「御花畑」邸の場所・規模・近衛家所有等を、京都府行政文書の発見により公文書特定に至れました。

発見に至る要因は、西郷隆盛文書に「御花畠水車」の記述を発見したことに始まります。御花畑に水車があったと考え、水車稼働に不可欠な水路の存在に着目し調査を続けていました。
一方で、御花畑があったとされる「室町頭」は地名であり、そこは「森之木町」であることは地元京都では公知の事実であり、京都市の全図書に所蔵される複数の地名研究本の明記されています。当時、森之木町には「御用水路」と呼ばれていた水路が流れていたことからも森之木町と確信しました。
そして、明治維新後の近代的土地所有制度への移行から、近衛家もその制度上で必ず届出をしているはず。と信念を持ち、資料を探したところ、近衛家が「森之木町」で届出ている公文書発見しました。(尚、後述しますが、御花畑が買得地であったこともそれに伴う届出書に記載される名代についても2016年9月刊の拙稿で翻刻を明記し考察済です。)
室町頭の位置を想定することは誰でも可能です。筆者も、室町頭の位置を想定し、さらに次に確証を得るべく明治初年の京都府行政文書を調査して発見に至れました。薩長同盟から150年目の節目での知見は報道も頂けました。
以下、簡単に時系列を記します。

2016年5月初旬 京都府立総合資料館所蔵の京都府行政文書、発見。
5月8日〜13日 鹿児島滞在。京都府行政文書の発見を、志學館大学 原口泉氏ら関係者に報告。尚古集成館 松尾館長らとも会食。小松帯刀の天吹を撮影に日置市へも伺う。
24日  鹿児島県史料センター黎明館 企画的「幕末薩摩外交」がスタートし、御花畑絵図が初公開された。
27日  御花畑絵図の出現を知り、再度、訪薩。黎明館で絵図を拝見。絵図に森之木町と記述あり、水路も描かれていることを確認。持参していた京都府行政文書を紹介する為、文章を作成。
28日 南日本新聞に文章をファックスし、山田天真記者と電話で話す
29日 黎明館にて山田記者、桑畑デスク、黎明館 学芸員 町田剛士氏と府行政文書について話す。
30日 原口泉氏が産経新聞連載コラム「歴史のささやき」で府行政文書、絵図紹介の原稿を執筆、産経新聞社に送られる。
6月3日 原口泉「薩長同盟締結の地、御花畑『発見』」(産経新聞社 歴史のささやき) が掲載される。
その後、新聞社の取材を受け、西日本新聞、京都新聞、朝日新聞、読売新聞等で報道され「御花畑」邸が公文書(府行政文書)の発見により確定された事が周知されました。

後記:資料を発見した瞬間に、資料を手にしたその瞬間をもって特定ではないの常識です。同年の2016年9月刊(6月受理)論考「薩長同盟締結の地「御花畑」発見」を発表しました。
 京都府行政文書の発見の後に初公開された御花畑絵図2016年5月24日に初公開、鹿児島県歴史美術センター黎明館のあと、両方の新出資料等を用いた論考は拙稿が初めてです。その中で御花畑邸の位置については位置関係図、御花畑模式図等を作成して示しました。公文書により場所の特定以外にも近衛家所有や実数(坪数、構造)なども初めて判明しました。
 しかし、その事実がありながら、いまだに、資料を手にしたその瞬間をもって特定である。と絵図発見者 町田剛士さんが企画展担当者として初展示(2016年5月24日)まで公表されていない事実があるにもかかわらず、ご本人ではない方々による喧伝が続いています。
 町田剛士さんは黎明館所蔵(玉里島津家史料)の絵図を勤務先の黎明館が所蔵される玉里島津家史料から発見され、2016年5月24日に開始された企画展「幕末薩摩外交展」の一部として組み立てられ、学芸員のモラルからも初公開(2016年5月24日)まで公表されていないことは知られています。それはその後の報道でも明らかです。
「幕末薩摩外交展」で初公開された御花畑絵図の展示説明は次の通りです。
「慶応2年1月、薩摩藩の小松帯刀、西郷隆盛、長州藩の桂小五郎、坂本龍馬が会談したとされる御花畑絵図。御花畑は、島津家と縁戚関係のあった五摂家筆頭近衛家の別邸であり、元治元年から薩摩藩が借用し、慶応2年1月当時は、小松が居住していた。」(以上)
 御花畑の所在地について一切触れられていません。展示説明は当時の報道にもはっきりと映っています
 黎明館 元学芸課長で現 西郷南洲顕彰館 館長 徳永和喜氏による、2016年7月号「照国神社」への寄稿には筆者と府行政文書を紹介下さっています。
「同盟締結場所の詳細発見 同盟締結場所の近衛家別邸御花畑の名前や大体の場所は知られるところであったが、最近西郷隆盛研究家の原田良子氏(京都在住、南洲顕彰会会員)が京都府行政文書から場所及び作法歳建物を記した文書を発見した。貴重なので今後の参考資料として掲載する。(中略)なお、今後屋敷内建物の配置や間取りがわかる資料を期待したい。」(以上)
 徳永氏 薩長同盟を考える 照国神社 2016年7月号.jpg 徳永氏2 照国神社 薩長同盟を考える.jpg
照国神社 2016年7月号 徳永氏.png

 翌2017年3月、町田剛士「幕末薩摩外交ー情報収集の点からみた薩長同盟ー」(黎明館調査研究報告第29集(2017年3月)の註釈(13)では以下のように筆者と拙稿を紹介下さっています。
「京都では、原田良子氏が京都府立総合資料館蔵「貫属士族受領並拝借買得地一件」から御花畑の地籍図を発見。総坪数が1796坪であることや建物の構造、現在地などが判明した。「薩長同盟締結の地「御花畑」発見」(西郷南洲顕彰会「敬天愛人」第34号2016年)」
町田剛士氏論文.jpg   町田剛士氏 註釈 論文.jpg

このように町田剛士さんご自身は黎明館の調査報告研究で明記されておられます。
 つまり、絵図発見者の町田剛士さんは、企画展で絵図を初公開された後、注目された時に初めて業務中に絵図を所蔵の中から確認されたのは企画展が始まる4ヶ月前である「1月」と答えられてますが、絵図を初めて手にされた2016年1月から翌2017年3月刊の町田さんの論文まで、町田さんは御花畑邸の位置や所在地について、ご自身で論文化されていないことは誰でもわかります。
 筆者自身も、絵図の存在を知る余地も無く、奇しくも、絵図初公開の前に公文書を発見し、鹿児島で関係者に公表していました。論文化にむけて小松帯刀の天吹を撮影に日置市へも赴き、こうして鹿児島から京都へ帰ってきてしばらくしてから、企画展スタートと共に絵図の出現を知り、驚いて急いでスケジュールを調整し鹿児島行の新幹線に飛び乗ったことを昨日のように覚えています。町田さんにもその時に初めてお会いしました。
 繰り返しますが、当事者である町田さんご本人は自分が特定したなどとはされていません。筆者と同じように困惑されているのではないでしょうか?
 何よりも、新しい知見は論文をもって発表するものであり、尊敬する歴史学者の先生方にも教えて頂きました。
 資料を手にした瞬間、その瞬間をもってすべてが特定されたとするのは印象操作と捉えられ危惧します。
論考として公表することの重みが、そんな当たり前のことが踏み潰されています。
 絵図には文書が付帯されておらず、作成者・作成年も不明で、実際にいつまで御花畑邸が存在していたのか、薩長同盟が結ばれた慶応2年1月に室町頭の場所に存在していたのか等、絵図だけではわかりません。一方、京都府行政文書は明治4年に近衛家により作成された公文書で、一緒に綴じられていた添図、実数等の記載からも、明治4年までは確実に現存していたことが判明しました。
 筆者は当時、町田さんから直接、玉稿を賜りました。町田さんの誠実なお人柄も存じています。
町田さんは元 中学校教員でもあり、筆者が受けた侮辱行為や人権侵害についても「憤りを感じる」と話して下さっていました。そして、筆者と公文書発見について新聞記者に自ら説明して下さっていました。
新聞記事は記者の目を通して書かれますので必ずしもすべて正確とはいえない側面はどうしてもありますが、薩長同盟から150年目に京都と鹿児島で御花畑邸の史料が発見されたことは大変喜ばしく、町田剛士さん、関係者をはじめ報道下さったメディアの皆様には感謝しかありません。

はじめに
「室町頭」が室町通と鞍馬口通の交点付近であることは、公知の事実です。
室町頭は地名であり、今から約30年前に活字化された松本利治「京都市町名変遷史1』(京都市町名変遷史研究所 1983年)の「森之木町」の説明に「室町通の一番端なので室町頭と呼ぶ」とあります。
他にも、公共図書館の書棚(書架ではなく)にある複数の地名研究本などに「室町頭は森之木町」との記述を確認していました。
「室町頭は森之木町」と言及の活字化されている図書館所蔵の本は以下です。
● 松本利治『京都市町名変遷史1』(京都市町名変遷史研究所 1983年)
●『京都の地名 検証2 風土・歴史・文化をよむ』(京都地名研究会 2007年1月)
●『上賀茂のもり・やしろ・まつり』(思文閣出版 2006年

上記以外にも、研究者なら誰もが見る京都坊目誌「▲森之木町」の説明に「室町頭と呼ぶ」と明記されています。
坊目誌は明治43年に京都府立図書館に行啓された皇太子にも披露され、現在、京都市内のすべての公共図書館に所蔵されています。大学の図書館ではありません。子ども達や地域の方 誰もが利用できる公共図書館です。
京都坊目誌 室町頭.JPG

また、市販されている古地図にも室町頭は記述されています。
室町頭 古地図.JPG 室町頭 古地図2.JPG

研究をまとめた論文は以下です
「薩長同盟締結の地『御花畑』発見」(西郷南洲顕彰会 刊『敬天愛人』第34号2016年9月) 
ここでは順次その要旨を紹介していきます。

はじめに史料発見の経緯です。
薩長同盟締結地「御花畑」は何処にあったのだろう?
明治維新への大きな転換点である薩長同盟会談の舞台が未だ特定されていないことを知り、京都在住者として、この謎に取り組みました。
 IMG_5071.JPG
薩長同盟は、定説の 二本松薩摩藩邸(現在の同志社大学今出川校地)ではなく、薩摩藩 家老 小松帯刀の京都寓居「御花畑」(近衛家別邸の呼称)で結ばれました。島津家薩摩藩と姻戚関係にある五摂家筆頭 近衛家から薩摩藩が借用した屋敷です。
そのことは、2008年刊の原口泉『龍馬を超えた男 小松帯刀』(グラフ社16刷 13万部、後にPHP文庫)で初めて知りました。
※遡って30年以上前、昭和61(1986)年初刷において原口泉氏は既に小松帯刀寓居とされています。(序文 原口泉『幻の宰相 小松帯刀』)
著者である瀬野氏も、原口泉氏に監修を受けられ、本文で「場所はお花畑の小松屋敷に」と 桂久武日記 を紹介されています。(瀬野冨吉:著 / 原口泉 : 監修 『幻の宰相 小松帯刀伝』小松帯刀顕彰会 下竹原弘志:発行、昭和61(1986)年、その後、宮帯出版社より2008年に改定復刻版が発刊【註1】
龍馬を超えた男小松帯刀.jpg 幻の宰相.jpg
そこは「御花畑」と呼ばれていました。すなわち、御花畑=小松帯刀寓居(近衛家別邸)です。
それから24年後、新聞連載において、御花畑は「室町頭」にあったことが公表されました。(桐野作人氏「さつま人国誌」南日本新聞 連載)

当時、連載は南日本新聞WEB記事によって全世界に公表されていました。決して、学会や論文の世界だけで共有されていたのではありません。
筆者は、毎月、京都から鹿児島へ通っていた中でそのことを知りました。研究者ではない多くの一般の方も 室町頭にあった御花畑を探されていましたが、長らく推定にとどまり、正確な場所は特定されていない状況でした。【註2】

京都で生まれ育った筆者にとって「室町頭」という呼称には馴染みがありました。室町頭は地名なので、そこに住む地元住民にとれば常識でした。
豊臣秀吉の京都改造にともなって鞍馬口通りが洛中の北限となり【註3】当時、室町通の頭(北限)は鞍馬口通(洛中洛外の境)で、室町通と鞍馬口通の交差するあたりを室町頭と指すことは常識の範囲であり知っていました(他にも、寺町頭や新町頭という呼称があります)
それは現・京都市上京区「森之木町」です。
それ以前、西郷隆盛と庄内藩の研究中に『大西郷全集』所収の文書から「御花畠水車」の記述を発見しており、水路が水車と関係する以上、この「御花畠」も御花畑邸の通称と解するのが妥当であると、水路の存在に注目していました。
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森之木町には、かつて禁裏(現在の御所)へ水を供給する御用水路が存在していました。(室町頭町には水路は存在しない)
御用水路とは、江戸時代はじめには存在が確認される、加茂川(現 鴨川)から井関をもって取水し、鞍馬口通 以北の小山村を中心とした田園地帯を潤しつつ、室町頭あたりから洛中に入り、上御霊神社、相国寺をへて、今出川御門より禁裏(御所)へと流れていました。
天保、慶応時代の古地図でも確認し、水路の存在を京都地方法務局の旧公図でも調査済でした。(原口泉 「薩長同盟締結の地、御花畑『発見』」(産経新聞「歴史のささやき」2016.6/3朝刊)でも紹介頂く)
IMG_5181.JPG 室町頭 2.jpg
(「改正京町御絵図細見大成 慶応四年」に追記)
それらのことから、室町頭は「森之木町」と想定し、資料を探しました。(前述しましたが、室町頭という呼称は浸透しており、その場所は 室町通鞍馬口通 あたりを指すことは京都では公知の事柄です。【註3】)
その認識をもとに、明治維新後の近代的土地所有制度(地租改正)への移行に着目しました。
その制度上で御花畑屋敷も届けられているはずで、その資料を見つけれたら、必ず、場所が特定できるとの信念をもち、京都地方法務局や京都府立総合資料館へ通いました。
資料館は、母校・洛北高校から徒歩7分で高校の授業でも訪れており親しみのある場所でした。(現在、資料館は一時閉館中で、今春、京都府立京都学・歴彩館としてOPENが待たれています)
資料館に史料として保管されている約5万点あるとされる膨大な府行政文書を絞込んでから、虫損もある和紙を一枚一枚めくり、筆書きのくずし字を読み解いたところ、明治4年に作成された京都府行政文書である
「貫属士族受領並拝借買得邸一件」等(京都府土木課文書)の中に、
近衛家森木町(現在の森之木町)で届け、京都府が受理している邸宅地所有を示す文書添付図を発見しました。
これらは同じ簿冊の中に綴じられていました。
それまで謎とされてきた「御花畑」が目の前に姿を現した瞬間でした。
5月初旬のことでした。
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文書は、正二位 近衛忠煕 家扶 斎藤叙全 の名前で、京都府に届け出され、壬申(明治四年)十二月十九日の日付があります。
(文書にある名代については、2016年9月27日京都新聞朝刊の拙者署名入り記事を参考下さい)
また、添付図は、ほぼ同じものが2枚綴られ、敷地の広さ、坪数など実数の記載がありました。
北(鞍馬口通)間口 四拾八間六寸      (88.36 m)
西(室町通) 奥行 三拾壹間三尺三寸 (56.96 m)
南(中町通)    七拾五間三尺壹寸(136.92 m)
惣地坪  1796坪4分5厘
うち
瓦平屋建  245坪
瓦住居2階建 10坪
土蔵      9坪
湯殿雪隠   21坪
瓦平屋長屋 162坪
門3ヶ所    3坪7分5厘
門番所     8坪7分5厘
納屋      3坪
社       6坪
このことから、
鞍馬口通 約90m、室町通 約60m、中町通 約140m
約1800坪 という広大な邸宅地であることが初めて判明しました。それは、行政文書でしかわからないことでした。
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添付図には、室町通、鞍馬口通の記述もあり、位置が特定できました。その敷地は現在の上御霊中町、小山町にもまたがることも実数の明記から判明しました。
当時、烏丸通は延伸していなかったので、現在は烏丸通が屋敷を貫いています。

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地下鉄「鞍馬口」駅@番出口は 御花畑の中となります。
原口御花畑 真上 .jpg
御花畑の上に立たれた 原口泉先生、2016年7月にご案内させて頂きました。
通説の 二本松薩摩藩邸 (現在の同志社大学今出川校地の一部) から北へ約800mのところに御花畑は存在していました。

IMG_0405.JPG薩摩藩邸跡.jpg
位置関係図は拙稿でも用いました。下記の周辺地図をご覧下さい。(「室町頭」の場所は長らく 室町頭町 と想定されていました【註2】ので、室町頭町と森之木町の現在の範囲を太線でしめしてあります。また、上善寺および上御霊神社は拙稿の中で触れた薩摩藩の情報収集拠点と位置づけ、◯で記しています)
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コピーライトマーク2016原田良子、新出高久

後述する拙稿「薩長同盟締結の地『御花畑』発見」『敬天愛人』第34号、西郷南洲顕彰会 刊、2016年9月刊) 
57頁、註9 では以下のように、買得地として届出について考察しています。

「(中略)届け一件分の全文翻刻は以下のとおり。

一 上京拾三番組一條通無者小路間橘圖子 
                買得地 
右名代上京拾三番組今出川通室町東入今出川町 
              橋村又右衛門

一 上京六番組烏丸通上立賣上ル蝴、子町 
                買得地 
右名代同組同町 
              駒井伊兵衛

一 上京七番組室町通鞍馬口下ル森木町 
               買得地 
右名代上京六番組新町通寺之内六道西町(後に、六道西町を寺之内上ル道正町と訂正)
             渋谷久兵衛

右買得地三ケ所付新券状御座候仍テ 
此度奉申し上候以上 
    正二位近衛忠煕家扶 斎藤叙全 
辛未十二月十九日 
京都府
御廳

「貫属士族受領並拝借買得邸一件」(土木課文書 明治四〜五年)には上記と同様の届出文書が大量に収録されている。
その文面から、各屋敷地について権利を示す「新券」がすでに明治政府から交付されており、それにもとづいて改めて各家から京都府庁に添付図面とセットで届け出た文書の綴りのようである。
また、これと添付図と同様の図が収録されている文書として「華族建家坪数書控」(華族触頭局文書 明治四年)という簿冊が存在する。この中にも御花畑邸の同じ敷地図面が収録されている。
ただし、こちらは通りの名称などは記載されていない。
また、「華族邸拝借並永借地図面確証相添差出扣」(京都府戸籍係文書 明治五年)には近衛家が保有していた今出川本邸や新町邸、堀川一條邸、河原町御殿が拝領地として図面が収録されている。
これら一連の行政文書の作成事情はまだよくわからないが、これらの簿冊作成の前後の明治四年十二月二十七日には東京市街地で課税を目的とした地券発行がはじまり、翌年の正月には無用の長物となり荒廃していた京都の諸藩の藩邸を強制収容する対策がとられている(「明治の京都藩邸処分」『京都府総合資料館だより』No.147 二〇〇六年)。
そして、明治六年には地租改正条例が布告される。行政文書に残るこれらの簿冊はこのような一連の土地所有の近代化過程を物語る史料として貴重なものであろう。
なお、文書中の「名代」については、近世で公家など町人身分でなく町共同体内の役務を果たせない者が、町の土地を取得する際に代理として名を出すものであると三井文庫主任研究員村和明氏より御教示を受けた。」(以上)
(※翻刻の「此度」を「此段」と後日訂正)
同じく、59頁、註10では以下のように、所在地について考察しています。
「明治十七年に太政官通達にもとづいて京都府が作成した上京地籍図(「京都府地籍関連資料「総合資料館だより」NO.155 2008年京都府総合資料館に解題がある)では各町ごどに詳細な地籍が図面によって記録されている。小山町のものをみると、御花畑邸の範囲に含まれている現小山町の部分は茶色で縁取りされ、「開墾地」と明記されている。ここは行政文書で確認したように明治四年までは御花畑邸の敷地内であった。したがって、明治十七年までに邸は廃絶したと思われる。その際、小山町住人によってこの部分の敷地が買得されたであろうと思われ、その結果として御花畑邸敷地内に現在小山町に属する部分が生じたと考えられる。同じ資料の森之来町の地籍図をみるとその東側は「上御霊上エ町ト接続ス」と記入されていて小山町ではない。
この矛盾はまさにこの調査が行われた明治十七年中に土地所有の異動があったことを推測させる。したがって、御花畑邸が存在していた当時、その敷地の一部が小山町であったとは断定できない。むしろ、御花畑邸が室町頭一帯の町組編成と同じ江戸前期に敷地が確保されていたとするならば、その敷地は町組に含まれることはなかっただろう。現時点では当時の近衛家の届出どおり、御花畑邸は森之来町に所在したという他はない。」(以上)

住所表記については、代表地番にもとづいて表記されることも多い。御花畑は現 三町にまたがっている約1800坪の買得地だったことは公文書により明らかで「森之木町」の名代と共に明記されていることは既に述べています。添えられていた図にも、「上京区七番組鞍馬口室町東入」とありそのあとに三町にまたがるうちの「小山町」とも記述されていない。

奇しくもその後、5月24日に始まった「幕末薩摩外交ー情報収集の担い手たちー」(鹿児島県歴史資料センター黎明館の企画展(町田剛士氏))に「御花畑絵図」とだけ記された絵図 (玉里島津家資料、黎明館所蔵) が初公開されたと知り、
すでに発見していた行政文書の写しを持参し、5月27日に鹿児島へ行き 絵図を実見したところ、
実際にその屋敷の形状は発見した行政文書の添付図と同じで、通りの表記も一致していました。
さらにかねて想定していた禁裏御用水路が邸内を流れていたことも確認できました。

尚、拙稿(2016年9月刊)で「(相国寺より北の)御花畑の苑池が御用水路本流を利用している事実は五摂家筆頭 近衛家の威光か、御花畑が御用水路と歴史を同じくしていることが考えられる」と記述したのは、林倫子氏による 御用水路の本流を邸内苑池に利用した例は相国寺のみである。との先行研究から推察し、註釈で取り上げています。

行政文書からは、近衛家の所有、通り名から正式な場所、森之木町と名代の表記、具体的な坪数、実数、二階家屋や湯殿雪隠、土蔵、社 などが明記され、
絵図からは、通り名、屋敷内の詳しい間取り配置水路の存在が明らかにされました。

後日、お尋ねしたところ「御花畑絵図」(黎明館所蔵、玉里島津家資料)等は、1990年代半ばにデータベース化(目録)されていたようです。(このデータベースは黎明館職員のみ使用が可能である。と返答を頂けました。)
絵図は「御花畑絵図」と書かれた和紙に包まれて所蔵されていたこと、文書は附帯されていない。こともお聞きできました。
こうして、鹿児島の「御花畑絵図」が初公開されたことにより、行政文書の森之木町の邸宅は、御花畑そのものと確認できました。同日に、鹿児島県立図書館の館長室へ訪問させて頂いた 原口泉氏 も喜んで下さいました。
絵図が初公開される以前、発見した行政文書を5月中旬に志學館大学の授業でも取り上げて下さっていたからです。

同日、企画展担当で業務中に黎明館に所蔵されていた「御花畑絵図」を見つけられ、企画展で展示された町田剛士学芸専門員からもお話を伺え、南日本新聞 桑畑デスク、山田記者にも黎明館でお会い出来ました。

町田剛士氏は2016年5月24日スタートの企画展に向けて御花畑絵図を展示のひとつとして組み立てられ、学芸員のモラルとしても初展示である5月24日まで公表されていなかったようです。企画展がスタートし、インタビューを受けられ、業務中に絵図を発見されたのは2016年1月と、初展示後に初めて公表されたことをお話の中で知りました。
学芸員の姿勢としても町田氏を尊敬致します。

業務中に御花畑絵図を発見され、展示へとまとめられた町田さんと筆者については、
薩長同盟から150年目に京都と鹿児島で御花畑の全貌が明らかになったことは本当に喜ばしいことと、いち早く、周知された原口泉先生の産経新聞連載コラムにもあります。

■2016.6.3 07:02【歴史のささやき】志學館大教授・原口泉氏 薩長同盟の地、御花畑「発見」

新しい知見は論文をもって発表とすることは常識であり、京都府行政文書を発見したその瞬間をもってではなく、府行政文書と絵図を用い、位置関係図や絵図模式図等も作成し、御花畑の場所だけでなく、その規模や機能からも「準藩邸」と位置づけたこと等、2016年9月刊(6月受理)の論文で発表できました。その間、どなたも新出資料を用いた論文を発表されていません。

以下は作成した模式図がこちらです。(詳細は別の頁で)黎明館に申請・許可を頂き、「御花畑絵図」から主殿の部分を模式しました。(新出高久 氏 : 協力) コピーライトマーク2016原田良子、新出高久
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論文に掲載したのは下記の模式図で、京都新聞、産経新聞にも掲載頂きました。
コピーライトマーク2016原田良子、新出高久
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現在地に反映させました。
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「御花畑」は、その規模と機能から、小松帯刀の私邸にとどまらない準藩邸と、拙稿で位置づけました。
それまでは、小松帯刀の私邸 との認識しかなかったでしょう。
前述した西郷文書に日付はありませんが、戊辰戦争後の京都の薩摩藩施設引払いについて27項目にわたる西郷の指示書(「惣引拂の節手配」大西郷全集二巻)であり、22番目に「御花畠水車の義は支配人見込の處へ引直可然事」とあります。
薩摩藩にとって御花畑の水車は重要な施設であり、幕末、充満した薩摩藩士の兵站確保の為に水車は精米などの用途であったと想定できます。その後、西郷の指示どおり移設されたのでしょう、行政文書にも絵図にも水車はありません。
かりに御花畑が小松の私邸であったなら西郷は指示したでしょうか? 
このことからも御花畑は準藩邸と位置づけられます。

150年目にして京都と鹿児島で一気に明らかになったことは、かつてないことだと思えます。
発見は、鹿児島県日置市にある小松帯刀墓所に参れた約1か月後のことだったので導かれたようにも感じます。
小松帯刀 墓所.jpg 小松帯刀墓所 風景.jpg
そして、論文として発表する前に、150年目の今、皆様にお知らせましょう。と、原口泉氏が新聞連載「薩長同盟締結の地、御花畑『発見』」(産経新聞「歴史のささやき」2016.6/3朝刊掲載。産経新聞社へは5月30日原稿送付)で紹介下さり、WEB記事によって全国にも周知されました。
その後、西日本新聞、京都新聞、読売新聞、朝日新聞、南日本新聞が取材・掲載下さいました。
そして、すぐに今までの研究をまとめました。
拙稿「薩長同盟締結の地『御花畑』発見」『敬天愛人』第34号、西郷南洲顕彰会 刊、2016年9月刊) 
敬天愛人 西郷南洲顕彰会.jpg
(公財)西郷南洲顕彰会 機関誌『敬天愛人』(顧問・島津修久、稲森和夫 / 館長・徳永和喜)

先行研究は、原口泉氏、瀬野冨吉氏の刊行本、桐野作人氏の新聞連載記事と、一般向けに広く公開されている媒体 によって導かれました
また、発見の要因は、西郷隆盛文書に御花畠水車を見出したことにあり(「惣引拂の節手配」(『大西郷全集 二巻』)
地名なので公知の事実である室町頭を森之木町 と確信したのは、誰もが手に出来る公共図書館の書棚にある地名の本等に明記されていました

このような経緯から、
様々な環境にいる子ども達が、おおいに図書館を利用し、自分のテーマや夢をあきらめず、積み重ねていけば努力は報われると信じて欲しいと願います。これからも深め、少しでも歴史研究に寄与出来れば、何よりの喜びです。

原田良子
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【註1】締結地が小松帯刀寓居と初めて知れたのは、2008年刊 原口泉龍馬を超えた男 小松帯刀」(グラフ社2008年16刷 13万部、後にPHP文庫)でしたが、それより遡り、30年前の昭和61年刊の『幻の宰相 小松帯刀伝』序文にて、原口泉氏はすでに、薩長同盟締結地を小松帯刀京都邸とされ、瀬野氏も本文で「場所はお花畑の小松屋敷に」と書かれ、桂久武日記を紹介されています。(瀬野冨吉:著 / 原口泉 : 監修 / 小松帯刀顕彰会 下竹原弘志:発行、昭和61年。その後、宮帯出版社より2008年に改定復刻版が発刊) また、知の到達点である『鹿児島県史 第三巻』でも記述があり、戦前からの定説であると紹介されています。
原口泉:鹿児島大学名誉教授、志學館大学教授、鹿児島県立図書館館長。来年の大河ドラマ「西郷どん」時代考証。(「翔ぶが如く」「琉球の風」「篤姫」「あさが来た」の時代考証)著書多数。

【註2】薩長同盟はあまりにも有名な歴史的事件ですが、その締結場所については当事者が締結場所について言及した一次資料がなく、長らく特定されていませんでした。当事者の品川弥二郎の回想によって京都の薩摩藩家老小松帯刀の寓居の可能性が高かったものの、その場所の特定には至れていませんでした。
南日本新聞の「さつま人国誌」で歴史作家の桐野作人氏は、薩摩藩士で薩長同盟締結時には島津家から近衛家に嫁した貞姫付きとして近衛家本邸にいた葛城彦一の日記の記述から、「御花畑」の場所が「室町頭」とされていることを発見されました。そして、その場所を現在の京都市上京区「室町頭町」付近と想定されました。
筆者は2016年5月初旬、府行政文書の発見後、最新の研究動向を確認するため「締結150年「再考」薩長同盟」(「歴史群像」2016年6月号(5月に販売)、学研プラス)を参照し、桐野先生が室町頭町を維持され、他の説は紹介されていないことを確認しました。御花畑発見の第一報となった 原口泉 「薩長同盟締結の地、御花畑『発見』」(産経新聞「歴史のささやき」(2016年6月3日朝刊。5月30日原稿送付)のあと、中村武生氏が室町頭を室町鞍馬口と推定されていたことを知りましたので、拙稿「薩長同盟締結の地『御花畑』発見」西郷南洲顕彰会刊『敬天愛人』第34号2016年9月)で中村氏を紹介しています。
絵図を発見され、黎明館企画展で初展示された黎明館 学芸員 町田剛士氏も中村氏をご存じなかった。と5月28日にお聴きし、関係者と共有しています。
前述したように地名である「室町頭」はそこに住む地元の人間にとって常識の範囲であり、公共図書館所蔵の地名研究本等に明記されている公知の事実であることから、多くの仲間が、自然に室町頭の場所を想定していたのが現実です。
繰り返しますが、当時、連載は南日本新聞WEB記事によって公表されていました。決して、学会や論文の世界だけで共有されていたのではありません。また筆者は拙稿で中村氏を紹介しており、「学術の作法」を守っています。
地元の京都新聞 朝刊には6月10日に掲載頂きました。取材時、先行研究として中村氏についても記者へ伝えています。しかし、報道は一般読者に読者にニュースを伝えることが目的であり、紙面や字数の制限もあり先行研究には触れられません。前提に、新聞記事は先行研究を述べる場ではありません。論文ではないのです。
そのことは常識ですが、実際、先行研究は伝えた事実があるにも関わらず、事情を確かめもせず、京都新聞の報道後、京都新聞と筆者への批判をツィッターで発信されただけでなく、あろうことか、公知の事実である「室町頭を森之木町」と想定したことを「剽窃」と決めつけ、「前提に剽窃の疑いがある」「行政文書に手を出した」との侮辱をツィッター上で発信。そのツィートを見た方々から、酷い人権侵害にあたる行為だ。と、スクリーンショットと共に連絡がくるほどでした。剽窃は名誉毀損にあたるのは言うまでもありませんが、筆者が想定を想定に終わらせず確証を得るべく資料を調査することは研究の上で当たり前のことであり、その結果、広く一般に公開されている府行政文書を調査し公文書を発見できました。
こうして微力ながらも歴史研究に寄与できたことは沢山の方に喜んで頂けましたが、実際は、人権侵害を受けたのも事実です。史料発見により研究が前に進んだ事実を喜ばしいとされず、史料を発見した事実に対して、事実無根の「剽窃」や「行政文書に手をだした」と最大の侮辱を全方位へと発信された事は、筆者への偽計業務妨害行為です。学術の作法以前の人権侵害です。このことは、専門家にも把握してもらっていますが、何よりも筆者の身内も相当なショックを受け、渦中、末期がんが悪化し亡くなりました。ヘイトや人権侵害が許される社会ではありません。
原口泉氏より「研究のいろはのいである。膨大な資料のめくりを地道にされた。研究の王道をいっている。」と評価を頂け、家近良樹氏、青山忠正氏、磯田道史氏など尊敬する歴史学者に論文で評価を頂け、周囲の支えもあり、その後も研究に集中し、積み重ねています。現在も、人権侵害に加担する研究者の存在が確認されています。
昨今、子ども達の自殺増加が社会問題となっています。人権侵害に苦しんでいる方々へ少しでも自分の経験が役に立てればと考え、事実を書きました。
御花畑が室町頭にあった。ということは、新聞連載+WEB記事により公開されていました。
また、室町頭は室町通鞍馬口通が交差するあたりを指すことは京都の常識であり、室町頭は「森之木町」であることは、100年以上前の『坊目誌』、30年以上前の1983年刊の地名研究本をはじめ複数の本に「室町頭は森之木町」と明記され、活字化されています。
それら地名研究は室町頭の先行研究です。
そして、その本は京都市の全公共図書館の本棚に所蔵されるほど常識であり公知の事実です。
報道により周知され、報道機関、関係者には感謝しかありません。
【註3】
重複しますが、京都では室町鞍馬口が室町頭とよばれる地点であることは公知の事実です。
拙稿でも触れましたが、生谷陽之助 氏は、「室町頭町」は室町時代の両側町に由来し、さらに豊臣秀吉の京都改造にともなって鞍馬口通りが洛中の北限となり、その結果、室町通りも延伸され、室町頭も北に移動したことを考察されています。
室町頭町という町名と、室町頭という地点名が別の場所に併存している理由もわかりました。(「室町頭町」『京都の地名検証2 風土・歴史・文化をよむ』(京都地名研究会編、勉誠出版2007年))
posted by 原田良子 at 23:11| 御花畑