2020年07月15日

桂宮家「小山御屋敷」発見!(小山御屋敷は近衛家別邸「御花畑」の前身屋敷ではありません)

近衛家別邸「御花畑」研究の深化のために。及びコロナ禍に「おうち」で発見できた事例として既に活字化した内容ではありますが報告致します。
■はじめに
 筆者は、2016年5月に京都府立総合資料館(現:京都府京都学・歴彩館)で近衛家別邸「御花畑」屋敷の位置と規模等を示す京都府行政文書を発見し、その後、鹿児島で初公開された御花畑絵図(黎明館蔵・玉里島津家史料)も用いて新史料から御花畑の正確な場所を論考をもって発表し(「薩長同盟締結の地『御花畑』発見」西郷南州顕彰会『敬天愛人』第34号2016年9月24日刊・6月受理)
その後も継続して研究を続け、様々な機会をいただけ報告しています。
 先頃、同志社大学の佐野静代氏が「御花畑」屋敷について専論(「近衛家別邸「御花畑」の成立とその政治史上の役割 : 禁裏御用水・桂宮家・尾張藩・薩摩藩との関わりについて」『人文學』同志社大学 2020年)を公表されました。その中には尾張藩との関係などについて新史料の紹介もされ今後の研究にとってたいへん有意義な論考であり拙稿も取り上げて頂きました。
 しかし、この論文の、ある論点と結論の論拠になっている「御花畑」の前身屋敷が江戸中期の桂宮「小山御屋敷」とされた点には誤認があり、筆者へも問合せがあることから、今後の研究のためにも早く報告した方がよいと忠告もいただきここに記します。 
 結論からいえば、小山御屋敷は御花畑の前身屋敷ではなく別の場所に存在しました。

■桂宮家「小山御屋敷」
 佐野氏が「小山御屋敷」を「御花畑」の前身とされた論拠は、著名な建築史研究者である故 西和夫氏がご著書『近世の数寄空間ー洛中の屋敷、洛外の茶屋ー』(中央公論美術出版1988年)で、江戸中期の桂宮家(当時は京極宮と呼称)小山御屋敷の場所を「地下鉄『鞍馬口』あたりにある小山町にあった」と記述されていることでした。以下に抜粋します。
「小山御屋敷(註4)は小山町にあった。烏丸通りを北に上った地下鉄鞍馬口のあたりである。鞍馬口は京の七口のひとつ。このあたりは当時、京の町はずれといった感じの場所であった。」(『近世の数寄空間』4頁)
(注4)「小山御屋敷については『桂宮日記』によっておよその位置が判明するが、どのような建物があったかなど詳細は不明である。」 
 このように西氏はその著書でも具体的な場所について言及はされていません。
 佐野氏も、西氏と同様に、未翻刻の宮内庁書陵部所蔵『桂宮日記』を読まれた結果、やはり具体的な位置を特定する新たな記述を見いだされなかったようです。『桂宮日記』からは「蛍火」の観賞記事をあげられ、蛍の生息環境や「御花畑」邸内に流れていた御用水路との関連を論じられて前身屋敷であることの補強材料とされました。
 筆者にとっては全く意表をつくご指摘で、もしそうであるなら大きな研究の前進と思い、確証を得るべく小山御屋敷について調べました。

■「京極殿別業」とある古地図、発見
 西氏の著書は論文形式ではなく、また場所については記述が簡略だったので、当時西氏とともに研究されていた小沢朝江氏(現:東海大学教授)に「小山町」とされた根拠についてご教示を仰いだところ、桂宮家 今出川本邸(現 京都御苑内の北東)からの距離や、途中参詣した寺社の位置関係、及び「小山」という地名に着目して比定されたということをご教示いただきました。
そういうことならば、小山町から具体的な場所を範囲を広げて探すことも可能ではないかと考えました。小山町の北にはその町名のもととなる小山村がひろがっているからです。
 筆者はこれまでの研究から幕末期の古地図に集中して渉猟していましたが、「小山御屋敷」に問題がひろがったので江戸時代前・中期の古地図にまでひろげて精査したところ、ずばり「京極殿別業」「京極殿別殿」との記載がある古地図を複数発見することができました。京極宮が小山御屋敷利用当時の桂宮家の宮号で、桂宮家は八条宮→常磐井宮→京極宮→桂宮と宮名が変遷しています。
 それは国際日本文化研究センター(日文研)のデータベース内にある森幸安データベースにありました。寛延 3(1750)年に刊行された「京師内外地図 洛中 洛東 愛宕郡」「城池天府京師地図」(国立公文書館蔵)でした。なお、筆者の発見を受けた論文共著者 新出高久氏(←新出氏のブログもご参照下さい)は同データベース内をさらに渉猟され、同じ場所に「八条宮別殿」とある図を確認されました。
■小山御屋敷の正確な場所
 その位置は「御花畑」の位置ではなく、小山町の西隣室町頭以西、新町頭以東「あたらし町」(後に長乗東町、西町)の北側に接する場所でした。この場所は西氏の論考にとっては想定の範囲内です。
 結果的に「小山御屋敷」の「小山」は小山町ではなく小山村にちなむものでした。もっとも小山村住人の数は少なく、ほとんどの住人は小山町に隣接して居住をしていたようです。
新 ブログ用の図 京極宮.jpg
(国立公文書館蔵 森幸安製作 寛延3年刊行 城池天府京師地図より一部加筆)
 その後の調査で、宝暦7(1757)年には小山御屋敷があった場所の痕跡がまったくみてとることができない資料により、遅くともこのころまでには完全になくなっていることもわかりました。
■まとめ
 以上、「御花畑」と「小山御屋敷」は全く別位置に存在し、御花畑の前身屋敷ではなく、また近衞家に拝領されたものでもないことが確認できました。(近衛家筆の京都府行政文書には買得地として届出られていることは2016年の拙稿で明記しています)
 今回の発見については既に活字化済ですが、前述したように筆者への問合せがあることから簡単ではありますがブログでも公表させて頂きました。御花畑について今後も研究を深めていきたいです。
 さいごに、小山御屋敷について貴重なご教示をいただいた東海大学 小沢朝江氏に記して感謝いたします。今回、場所が特定できたこと何よりです。とお言葉を頂きました。
西和夫氏のご著書 挿図の掲載については中央公論美術出版社より許可頂きました。
絵図発見後に森幸安について伊東宗裕氏よりご教示いただけ上杉和央氏の森幸安に関するご著書等も紹介くださいました。
原口泉氏、青山忠正氏にご見解をいただけました。有難うございました。
今回の考察のきっかけを提示下さった佐野静代氏、先行研究者にも改めて感謝致します。
西和夫 近世の数奇空間 表紙.JPG
西和夫『近世の数寄空間ー洛中の屋敷、洛外の茶屋ー』(中央公論美術出版1988年)

付記@「アーカイブの公開について」
 コロナ禍で図書館等が閉館したことで研究活動は困難になっています。しかし、一方で建築工学系の論文アーカイブが無償公開されたり、近年進んできた絵図のオンライン公開など、今までは相当な時間が必要であった資料の探索や画像閲覧が容易にできる環境もまだまだ不十分とはいえ整備されつつあります。今回はそれらを最大限活用して「おうち」作業で特定できました。思えば、2016年5月、筆者は京都府立総合資料館(現 京都府京都学・歴彩館 )でそれまで不明であった薩長同盟締結地を公文書で特定できた背景にも資料の公開性抜きには語れません。このことからも、今後も公開性がさらに進むようにと願います。

付記A「まち歩き」
 御花畑屋敷と小山御屋敷の位置関係について、まち歩きでも紹介しました。
京極宮がたどったであろう道順をたどり、幸神社や上御霊神社にも参拝し、あらためて「御花畑」と「小山御屋敷」の位置関係も参加者の皆様と一緒に確かめられました。
今はもう完全な市街地になっていて往時を偲ぶものはありませんが、小沢氏からご教示いただいたこの屋敷付近での野辺遊び、西氏が強調された送り火見物など、『桂宮日記』の記述をたよりに思いをはせることができました。
ブログ用 小山御屋敷あそび古地図.jpg
 また、二条城の本丸の建物は京都御苑北東の旧桂宮邸(桂宮・石薬師邸から本邸への移築経緯は西和夫氏らの論文があります)から明治時代に移築されたものです。修理のため2007年以来見ることができなかったものが再来年には久しぶりに公開される予定のようです。先立って、今週末の7月19日(日)には筆者もガイドをさせて頂いている「まいまい京都」と京都市の共催の【ライブ配信】磯田先生と二条城へ!本邦初、禁断エリア徹底潜入オンラインツアーが開催され磯田道史先生もガイドをされます。

付記B「7月16日の送り火」
 小山御屋敷が存在した時代、旧暦7月16日が大文字の送り火でした。時代は下がりますが御花畑屋敷でも当時、小松帯刀や西郷隆盛が送り火を鑑賞した記録がのこっています。
今年は葵祭 祇園祭の山鉾巡行等も中止となりましたが、かろうじて送り火は規模が縮小されながらも来月実施されます。生まれて初めて祇園囃子の聞こえない7月を過ごしていますが、改めて当たり前ではない日常に感謝し、送り火を静かに豊かに鑑賞したいです。
送り火 西和夫 近世の数寄空間 挿絵.jpg
『近世の数寄空間ー洛中の屋敷、洛外の茶屋ー』(中央公論美術出版)より
 最後まで読んで下さり有難うございました。原田良子

※ お問い合わせは以下のフォームよりお願い致します。
posted by 原田良子 at 18:36| 日記

2020年02月07日

「有待庵」の保護を応援下さった皆様へお願い

■はじめに

現在、有待庵は破壊されたとの言説が拡散されているようですが、決して破壊されてはいないことを改めてお伝えします。有待庵の調査とは無関係の方が、憶測で、有待庵は破壊されたと一方的に決めつけた内容のツィートを昨年2019年6月にはじまり現在に至るまで8ヶ月以上にわたって全世界に発信されリツイートによって拡散されている異様な事態に、実際に有待庵保護にご尽力下さった皆様の事を思うと、筆者自身、心をえぐられるような思いです。このままでは、今後、文化財を守ることに及び腰になり、結果、消失させてしまいかねない。危惧します。どうか最後まで読んで頂ければと願います。

■破壊ではありません

 「破壊」とは、例えばパワーショベルなどでぶっ壊すなどして跡形もなく壊され、二度と再生できない状態にされたことをいいます。開発前提で発掘された遺跡の遺構は記録保存されたあと破壊されてしまいます(これ自体問題ですが、日常的に行われているのが現実です)しかし、有待庵は違います。

 有待庵は再度組み立てることを前提で、職人が部材を上部からひとつひとつ丁寧にほどいていきました。これを解体といい破壊ではありません。解体という言葉に誤解をもたれる方もいらっしゃるので「とりほどく」と称されることもあるそうです。

2019年6月3日、京都市による有待庵の解体現場には多くの報道機関が取材され、有待庵をとりほどく為に番付が貼られている状態をカメラやビデオにおさめられています。それは報道によって全国にも紹介され、現在もネット上で見ることが可能です。

「大久保利通の茶室、解体工事始まる 将来的に再建目指し部材保管」(京都新聞 2019/06/03)

https://www.kyoto-np.co.jp/articles/-/7949

有待庵の解体工事 20190603.jpg

■緊急性の中での最善の判断

報道されているように、有待庵は、所有者の意向京都市が寄附譲渡をうけたかたちで市有化の道が開けました。京都市は専門家による調査を経て当たり前ですが図面も書かれ、緊急性のある中で、最善判断され、解体されていますそれは公文書(京都市の回答書)によって明らかです。

また、建物をそのまま移動させることができたという言説もありますが、実際に調査をされた京都市によりそのような工法余地はなかったようです。あとになってから、調査とは無関係の方が、一方的に「破壊」と決めつけたり、現実的に不可能だった工法を掲げて実際にご尽力下さった関係者を非難する発言に危惧します。

筆者は、第三者である建築の専門家にも、有待庵の解体についてお尋ねしたところ、京都市の措置は「破壊」ではないという見解を頂いています。例えば、重要文化財でも解体移築の際は、土壁は壊されるそうです。

■お願いですから辞めてください

「有待庵は破壊された」と決めつけ、京都市や市担当者の判断や措置を非難し、関係者を不当に貶める内容のツィートを見かけ、本当にかなしいです。ご尽力下さった関係者皆様のおかげで有待庵は失われずにすみました。有待庵保護にご尽力下さった方々が非難され侮辱を受ける理由はひとつもありません

大久保利通旧邸跡(私有地)の「土地を市が買い上げて史蹟に指定するのが最上位の保存」、「発掘調査」をしていない、とした内容もありました。

個人の私有地を所有者の意思をないがしろにして税金を使って(何千万〜億)所有者から奪わないと文化財保護ではないのでしょうか?

文化財の保護は現地保存されることが望ましいことは誰でもわかりますが、今回はそれが不可能で、まさに目の前で消失しようとしている緊急の状況下でした。その中で、関係者は最善の策で保護して下さったのが事実です。これは当たり前のことではなく胸をはっていい文化財保護のスキームだったと筆者は考えます。

後述しますが、所有者の事情がある中で発掘調査強行はあまりに困難で非道であることも誰でもわかります

つぶやきにすぎないから何を言ってもいいということにはなりません。揶揄や侮辱、恫喝に等しい投稿にいたっては、それに、いいねやリツィートされている方々も含めて本当に驚愕します

どうか、京都市担当者や関係者を非難したり責めないで欲しい。最大限の努力をして下さいました。反論されないからと自治体・公務員を叩くことは本当に辞めて欲しいのです。

有待庵を見つけた筆者自身、侮辱を受けている状況ですが、お願いですから、所有者の土地を奪え、発掘調査の為に我慢させろというような文化財保護を黄門様の印籠のように掲げて関係者を非難したり貶めるような酷いことに拡散で加担しないで欲しいです。それに、一方的に破壊として所有物の価値を貶める事は違法です。

有待庵の現存確認から一ヶ月も経たないうちに保護に至れた今回の文化財保護を、このスキームを大切にできればと願っています。最善を判断した市や担当者、尽力下さった関係者がこのような目に合うことで、今後、保護する対象物がでてきたときに、本当に消滅してしまう事態になりかねないのです。

■かけがえのない思い

そもそも、住宅解体現場で、有待庵の現存を確認できたこと自体が幸運なことであり、さらに、この後に及んでの所有者の善意で調査の時間を頂けました。保護の為に解体する時間を頂けました。そこで生じた金銭的、時間的負担は個人である所有者の負担になるにも関わらずです。所有者は日々生活を営む個人です。企業や法人ではないのです。

所有者は、新居で家族一緒に暮らすかけがえのない目標をもっておられました。実はお子様が御病気で入院されていたのです。その苦難の中で、有待庵保護の為にご協力下さったのです。関係者も一丸となって緊急性のある中で保護を実施されました。

しかし、結局新居には間に合わず、お子様は天に召されました。それなのに所有者は、有待庵保護のせいではない、工期は元々間に合わなかったんだからと筆者に仰って下さいました。私は涙をおさえきれず御礼を伝えるのが精一杯でした。私自身、両親を看取っており、肉親との死別の辛さは何年経とうがなくなることはありません。それでも親との死別は順番といえます。世の中で、子どもを先に亡くすというのはどれほどの苦しみでしょうか、私には想像もできません。所有者の尊いご厚意を忘れずに生きたいです。

■最後に繰り返します

有待庵は破壊されていません。多くの皆様のご尽力で失われずに保護されました。このことをどうかご理解頂きたく、文化都市 京都で、文化財保護を考えるきっかけにもなればと願い書かせて頂きました。

有待庵は所有者のご意向で京都市へ寄附譲渡をされ市有化の道が開けました。市有化により、子どもたちや修学旅行生も気軽に歴史的建造物に触れられます。歴史に興味をもつきっかけになってくれたら筆者としては望外の喜びです。

尚、有待庵は大久保利通の茶室として保護されました。御花畑から移築された件については保護の論点ではないことを付け加え、有待庵の保護を応援下さった皆様、保護にのりだそうとして下さった方々にも、この場を借りて感謝致します。最後まで読んで下さり、有難うございました。


付記

筆者は、令和元(2019)年5月9日(木)、大久保利通旧邸宅跡の住宅解体現場で、現存する大久保利通の茶室「有待庵」を確認できました。直後から信頼する有識者に連絡し、最善の模索を始めました。有待庵に関してA4一枚におさめた文書を作成し、翌10日(金)京都市文化財保護課に出向き、調査をして頂けるようお話させて頂きました。20(月)に調査に来て頂けることになり、所有者のご厚意で、当日調査の為に4時間頂けました。その後、京都市の英断で有待庵の保護が示され、所有者のご意向で京都市が寄附譲渡を受けたかたちで市有化の道が開けました。感謝しかありません。

有待庵が現存していたことは5月14日に報道されました。有待庵の保護に関しての問合せはすべて市文化財保護課へつないできました。筆者は現存確認できたことから初動では関係者と連絡をとる立場にありましたが、京都市が有待庵保護を表明されたことは5月20日に報道もされ、京都市当局が窓口であることは周知されました。

問合せされた方々と市文化財保護課との話し合い等は筆者にはまったく関係なく知るところではありません。ただ、私見ですが、上述したように、所有者は京都市へ寄附譲渡のご意向を示されていても、お子様が御病気の状況の中でしたので、時間がかかったこともあるのではないかと推察します。行政は正式に決まったことしか表明できない立場だと理解しています。

令和2年(2020年)2月7日 原田良子

posted by 原田良子 at 21:15| 日記

2019年11月23日

大久保利通の茶室「有待庵」の来歴について(「桂ノ宮内尾崎」の考察)

■はじめに、大久保利通の茶室「有待庵」の来歴を把握するには、大久保利通旧邸(以下、石薬師邸)の所有者の変遷をおさえる事は必須であり、以下3点の史料等から検討した。

1.大久保利通 三男 利武の講演録『有待庵を繞る維新史談』(同志社 昭和19年刊、以下『維新史談』)

2.大久保利通旧邸跡(京都市上京区)『旧土地台帳』(京都地方法務局 所収)

3.利武の聞書き『石薬師直話(雑)』(大久保家史料)

■1.『有待庵を繞る維新史談』は、昭和17年に同志社の総長 牧野虎次が主催し、大久保利武(大久保利通の三男、当時、大阪府知事)の講演会が有待庵で開かれた際の講演録である。37頁に利武が石薬師邸を買い戻すまでの様子が語られる。

利通が明治元年6月、東京へ赴任する際、家来へてから々して京都御所に仕へた寺島と云へる女官の手に入り、四十年隠居の宅住まひになり、割合よく保存されて居りまして、私が大阪府知事時代、大正三年、隠居も巳に逝くなり居ることを聞き、譲り受けたのであります。(37頁)

■2.『旧土地台帳』(写真1)には、制度が始まった明治20年代以降の石薬師邸(土地)の所有者等の記載がある。そこには確かに、利武が大正3年3月4日に所有したことが明記され、『維新史談』で語られた事を裏付ける。

大久保旧邸 旧土地台帳.PNG

写真1 

所有者は年代順に以下6名の記載がある。制度変更に伴い、土地・建物登記簿へと移管したことから昭和35年以降の記載はない。

@松本宗達

A寺島富子

B寺島正之

C大久保利武

D大久保利謙

E岩田氏

■3.『石薬師直話(雑)』(大久保家史料)(写真2)は、大久保家ご当主(利武の孫)大久保利泰氏よりをご提供頂け、掲載の許可も得た。

当史料は、利武が大阪府知事時代の大正3年に石薬師邸を買い戻した時、地元の紙商 西村安兵衛に聞き書きした記録で、国立歴史民族博物館にも寄贈されていない大久保家史料である。

直話 大久保家史料.jpg

写真2『石薬師直話(雑)』(大久保家史料)(一箇所、加筆)

 以下、一部抜粋する。

石薬師邸宅ハ、大久保公御維新ノ際参与ノ重職ニ就カレテカラハ

彼ノ通リ甚タ手狭マニテ出這リノ上ニサヘ困ラレ一時桂ノ宮内尾崎ヘ引移ラレタ

是カ明治元年ノ春ニナツテカラソシテ同年六月江戸ニ行カルゝマテ居ラレタ

石薬師ノ御宅ハ公ノ東上ノ際ニ家来鎌田某ニ賜リ後鎌田ハ徳大寺公ノ家来松本宗達ニ譲リ

明治廿三年に宮内省女官寺島富子(代々宮中ノ眼医者ノ家)カ

出町ノ紙商西村(現ニ猶存在セリ)ノ斡旋ニヨリ買入レ

廿九年ヨリ四十年同人死ヌマテ住居シ大正四年春ニ至ルマテ後継者正之ノ手ニ存シタルモノナリ(中略)

石薬師邸の来歴に考える上で、大久保の拠点に関わる箇所として、上記の『石薬師直話』の冒頭、維新後に参与となった大久保は「甚タ手狭マニテ出這リノ上ニサヘ困ラレ一時桂ノ宮内尾崎ヘ」移ったとある。

これは『維新史談』や『旧土地台帳』に記載のない知見である。

『維新史談』では、大久保が石薬師邸に居住した「慶応2年春〜慶応4年6月」

うち、「慶応4年春〜6月」まで、一時、桂ノ宮内尾崎へ移っていた事になる。そこはどこなのだろう? 

「桂ノ宮内尾崎」は、桂宮に仕えていた諸大夫 尾崎正康(『京都市姓氏歴史人物大辞典』角川書店 平成9年)が該当する。尾崎正康が明治4年9月15日に京都府に買得地として届出た文書(写真3)によると、

今出川通南裏寺町西江入三町常盤井殿町」に惣地坪168坪7歩4厘(うち本家43坪半)」の宅地を所有していた。

(尚、尾崎といえば、尾崎三良も思い浮かぶが尾崎三良の明治元年の洋行前後の居宅には母が同居しており、その可能性は低いと結論づけた)

尾崎 士族邸調書.jpg

写真3『士族邸宅調』(京都府立京都学・歴彩館蔵)(一箇所、加筆)

■現在の「常盤井殿町」は、今出川通より北にあり、町域のほとんどが同志社女子中学校・高等学校の敷地にあたる。しかし当時は今出川通より南、桂宮邸跡の東側も常盤井殿町の町域であった。明治2年2月、常盤井殿東町、西町、北町の三町が合わせて一町となった。当時は公家町であったが遷都で公家屋敷が減り、明治10〜11年に今出川通の南側の地は京都御苑に編入されている。今出川通の北側には維新前には二條家があったことから、尾崎が所有した宅地は必然的に今出川通の南側となる。

現在のところ正確に比定できる資料は見つけられていないが、今出川通南側の京都御苑内の現「今出川広場」の一画にあたる。

常盤井殿町 範囲 尾崎.jpg

 明治17年の常盤井殿町の町域、当時は今出川通を挟み南北に及んだ
御苑内の看板 尾崎.jpg
尾崎邸のあった「常盤井殿町」は現 京都御苑 北東の「今出川広場」(京都御苑の看板より)

■維新後、参与となった大久保は、石薬師邸(約60坪)から明治元年春に尾崎邸へ移った。常盤井殿町の宅地であるならば、そこは約168坪と石薬師邸の約3倍であり、手狭になったからとする理由に該当しそうだ。尾崎は住所を北横町で届けた公文書も存在し、尾崎自身は北横町に居住していたと考えられる。
京都御苑として整備される前は、現在にように
壁で仕切られていない地続きであった為、石薬師邸と尾崎邸はまさに目と鼻の先の距離といえ、第二夫人 杉浦ゆう(祇園・一力亭の娘)とのあいだに大久保にとって四男 達熊が慶応3年7月に誕生していることから、家庭と公の空間を別にし、かつ、行き来が容易な位置関係であったと考えられる。当時の石薬師御門の位置を再現し、常盤井殿町の範囲を示し、大久保利通旧邸(石薬師邸)との位置関係図を作成してみた。

石薬師御門と常盤井殿町.JPG

大久保利通邸(石薬師邸)と尾崎邸があった常盤井殿町範囲(新出高久氏協力)

引き移った期間は明治元年春から東行する同年6月までの数ヶ月であった為、『維新史談』では語られなかったのだろう。

 他には、『旧土地台帳』には記載がなく、『維新史談』で語られる利通が明治元年6月、東京へ赴任する際に家来家来某は、当史料の「東上ノ際ニ家来鎌田某ニ賜リ」から名前が「鎌田」某 とわかったが、人物は特定できなかった。

また、『旧土地台帳』の松本宗達は徳大寺の家来(家扶)、『維新史談』でも語られた寺島富子は宮内省女官で代々宮中の眼医者の家、後継者は寺島正之などより詳しくあり、地元の生き証人であり石薬師邸を斡旋した地元の紙商 西村安兵衛から熱心に聞き書きをされた利武の記録『石薬師邸直話(雑)』は誠に貴重な史料である。大久保家より直接ご提供頂けたことに改めて感謝したい。

石薬師邸の所有者の変遷

今までみてきた3点の史料と後述する昭和期の土地・建物登記簿(京都地方法務局)より把握できた石薬師邸の所有者の変遷を年代順に整理する。(時期は省略)

@大久保利通

A鎌田某

B松本宗達

C寺島富子

D寺島正之

E大久保利武

F大久保利謙

G岩田氏(男性)

H岩田氏(女性)

I前所有者(今年2019年5月に京都市へ有待庵を寄附譲渡された)

 前述した『維新史談』で利武が語ったように、大久保が東行してから約40年を経て利武は買い戻し、その間、所有者は4人変わっている。しかし、利武が「割合よく保存されて」いたとしているように、石薬師邸は利通の時代からそのままの状態であったことがうかがえる。(補修はされた可能性はある)

明治国家の建設に大きく貢献した大久保の名声は死後も衰えることはなく、たとえ2年間とはいえ実際に居住した石薬師邸をその後の所有者が全面的に解体したとは考えにくい。現在のようにリフォームが簡単にできる時代ではなく、明治期に大きな火事や地震もなかったことから建物が消失・崩壊する原因もない。利武が所有した大正4年には大正大礼が京都で行われ、それに合わせて茶室が公開された時には大久保と同時代の元帥 大山巌が訪れ、当時を懐かしんでいる。それは、石薬師邸が当時と同じ外観であったからといえるのではないか。

石薬師邸 外観.jpg

石薬師邸(大久保利泰氏ご提供)

利武が所有した大正〜昭和期にかけて有待庵は公開され、松方正義、西園寺公望、東郷平八郎など維新・薩摩関係者、文化人、地元名望家が、昭和大礼時には、千宗室、千宗左、藪内紹智など茶室関係者も訪れている。

■有待庵の来歴

京都地方法務局所収の石薬師邸の所在地登記簿謄本によると、昭和51年7月26日、単体で「茶室」が「木造杉皮葺平屋建」「6.41平方メートル」で登記されている。このことから判明したのは、かつては母屋と廊下で接続されていた有待庵が、大久保家が手放した昭和34年から登記で明記された51年の間に母屋と切断され単体の建物となった。

昭和51年 登記簿.jpg登記簿 2 茶室.jpg

 今年の5月9日に現存を確認した時、屋根は銅板であったことから、昭和51年以降に「杉皮葺」から「銅板」に替わる屋根の改変が加えられたおおよその時期も把握できた。

また、有待庵の吊床に「暦貼」(慶応3年とある)が貼られている古写真から、客人を迎えるために施されであろう腰貼は、他の和紙が貼られた写真も存在するが、それら痕跡も現存確認時に見られなかったので、母屋と切断した時、もしくは屋根を替えた時に、土壁もいったん壊されたと推定する。それに伴い、下地窓の障子も、大久保の時代から当時(昭和期)の障子に替えた。しかし、四隅の柱は、古写真と同じであることは現存確認時に目視であるが確認できた。

有待庵 暦貼 敬天愛人.JPG

(大久保利泰氏ご提供)

■おわりに

簡単ではあるが、公開されている史料と現存確認時の実見などから石薬師邸と有待庵 来歴を整理した。大久保利泰氏より直接ご提供頂けた『石薬師直話(雑)』のおかげで前進した。これらは近畿枕崎会会報『火の神』(第68号 号外)で既に活字化した内容である。昨年、枕崎市からご依頼を頂け市内小学校等で講演をさせて頂いたご縁から発表した。

まだまだ調査不足であるが、有待庵は間取りはそのままで令和の時代まで残っていたことは、所有者が変われど大久保利通の茶室として大切にされてきた証といえよう。

近い将来、この有待庵が移築復元され、一般公開が予定されている。子どもたちや修学旅行生も気軽に訪れ、実物に触れ、歴史を身近に感じてもらえれば望外の喜びだ。筆者もその時を心待ちにしながら、これからも積み重ねていきたい。


■有待庵は大久保利通関連の遺蹟を第一義として保存された。御花畑から貰い受けた(移築)茶室という説が理由ではない。その事は、京都市文化財保護課 中川慶太課長が「大久保利通関連の遺構が少ない中で、2年間とはいえ、大久保が過ごした空間を市民と共有していければ」と見解され、報道もされている。
尚、その上で、「御花畑絵図」(鹿児島県歴史資料センター蔵「玉里島津家史料」)と有待庵の平面図を取り上げて考察した寄稿(2019年6月13日付 京都新聞)はこちら→ 大久保利通 茶室「有待庵」歴史的価値と保存を考える 原田良子
さいごに、桂ノ宮内尾崎の尾崎邸の「常盤井殿町」の範囲を朱色で表し、京都の薩摩藩施設・主要人物の寓居等の位置図(新出高久氏作成)もご参照下さい。
全体図 常葉井殿町.jpg

 

続きを読む
posted by 原田良子 at 17:08| 日記